違う視点をもつわたしたちが「わかりあう」ということ

先日、TV番組「マツコの知らない世界」でフォントの世界が取り上げられていました。

何百種類ものフォントを見分けられる絶対フォント感をもつ方をゲストに、本やまちなかで使われるさまざまなフォントを紹介していきます。

 

このように、趣味が近い方の話を聞いていてつくづく思うのは、たとえ趣味が似ていても、注目するところ、視点は微妙に異なるのだということです。

番組でも、最後に国鉄時代のフォント・スミ丸ゴシックが紹介されたところで、マツコさんはフォントより駅名標自体のデザインに関心があるような口ぶりだったのが興味深いところ。

 

もし、同じように文字好き・フォント好きの人を集めてまちあるきをしたとして、きっと着目するところはみんな少しずつ違うのだと思います。

(ちなみに、文字、ロゴ、フォントはそれぞれ似て非なる概念なので、「文字好きの人」と「フォント好きの人」は同じとは限りません)

 

そして、わたしにとってみれば、そんな違いが生まれること自体が、とても楽しい。

 

ひとりひとりの「視点」のちがいを考えるの記事で書いたとおり、たとえとなりどうしに並んでいても、同じ視点は存在しません。

違いがあることで、争いが生まれることも世の中にはあるけれど。

ある程度の共通基盤をもった中であれば、違いこそ、お互いの個性として楽しむことができます。

 

「わかる」は「分かる」と書くように、分類することで世界を細かく見ていく方法。

そうやって分かれた世界も、遠くから見れば、モザイク画のようにひとつの大きな絵になる。

 

分かれて、またまじり合う。

 

そんな、ふたつの視点を合わせもつことが、「わかりあう」ということなのかもしれません。