月という発明(または発見)

月という発明(または発見)

2024年(令和6年)も、はやくも12月を迎えました。

旧暦での異名は師走、英語ではDecember。

英語をはじめて習ったころ、月の名前は違っても、一年のなかにある月の数が同じ12であることを不思議に感じました。

考えてみれば自然で、農耕や狩猟が暮らしの中心にあったころ、季節のめぐりを正確にかえぞえることは何より大切だったでしょう。

時計もカレンダーもない時代、使えるのは、日のめぐりと、月の満ち欠け。

地動説であろうと天動説であろうと、月がおよそ29から30日の周期で満ち欠けをくり返すことは、文字通り〈一月〉を数えるのにはとても都合の良いことでした。

そして、ひとつきを12回くり返せば、おおよそ一年。

洋の東西で閏年や閏月の考え方は少し違っても、年を分けるために12の月が選ばれたのは必然でした。

今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも、主人公の紫式部と藤原道長たち平安貴族が、よく月を眺めているシーンが印象的でした。

この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば
(藤原道長)

ドラマの終盤でも描かれた、この有名な歌を詠んでから、あたかも望月(満月)が欠けていくように、栄華を誇った道長は健康状態を崩していったといいます。

一般的には、摂関政治の頂点を極めた道長の驕りのように批判される歌ですが、ドラマの優しい道長から受ける印象はずいぶん違います。
史実でも当時否定的な反応はなかったようで、〈世〉は〈夜〉と解釈したり、素朴な感情をうたいあげたという読み方もあるそうです。

どんな読みであろうと、千年のあいだ変わらず満ち欠けをくり返す月を見上げながら、若かった頃の自分やまわりの人間、うつろってゆく立場に想いをはせれば、彼らの想いの一端にふれられる気がします。

そう、紫式部が「源氏物語」を描いたのが約千年前と言えるのも、年月という発明(あるいは発見)があったからこそです。

時間を分ける単位が生まれれば、明確な記録ができます。

千年前、百年前、一年前。

過去から現在に向かって、ほんとうは切れ目なくつながっているはずの〈時間〉というものを分けて考えることで、ある一定の期間を記録し、ほかの期間と比較できるようになりました。

今年は去年よりも暑かった、あるいは、今月は先月よりも支出が多かった。

そうやって過去どうしを比較し、ふりかえることで、未来はもっと良くしようと計画することもできます。

ブログ「凪の渡し場」をふりかえっても、今年は10月までに三つの記事しか公開することができませんでした。

2016年にブログを開設してからの最低記録である8記事(2021年と2023年)を更新する年になってしまうかもしれません。

ブログに書いていない、さまざまな出来事はあったものの、総じてインプットが多く、アウトプットが不足した年だったようです。

来年は、ブログに限らず、新しいアウトプットに挑戦してみたいと思いつつ。

まずは、こんな記事から、スモールステップを踏み出してみます。

Published by mizuho

文字遣い/探索士 ——夕霧に包まれ消えゆく島の名を知る術も無し凪の私は

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