今回はフォントの話はちょっとお休みして、このサイトでお伝えしていきたい「新しい視点で世の中を見る」ということを考えたいと思います。
みなさんは「ルビンの壺」というのをご存知でしょうか?
By John smithson 2007 at English Wikipedia – Transferred from en.wikipedia to Commons by PHansen., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13901986
上のような、黒地と白地の図形で、白を図としてみれば壺にも見えるし、黒を図としてみれば向かい合った二人の顔にも見える、というもの。
子供の頃、国語の教科書に載っていたのを憶えています。
もともとエッシャーとか「ペンローズの三角形」のようなだまし絵が大好きで、それと同じような感覚で、単純に面白いと思って印象に残ったのかもしれません。
しかし、あらためて考えてみると、この「ルビンの壺」、視点というものを考える上でとても大事なことを教えてくれるような気がします。
以下、もう当時の教科書は持っていないので、もし同じようなことを書いていたとしても深層意識のなせる業としてご容赦ください(笑)
1. はじめて見た時に「壺」だと思う人と、「顔」だと思う人に分かれる
当時、私がこの図形を「壺」だと思ったのか、「顔」だと思ったのか。
それはもう憶えていませんが、たぶん授業の流れで、どちらだと思う? と手を挙げさせられたのだと思います。
私が先生だったらそうしますもの。
そしてこれもきっと、全員の手がどちらかに挙がるわけではなく、偏りはあるにせよ、どちらにも票が入ったに違いないのでは、と思います。
もっとわかりやすいのが、こちらの絵でしょうか。
By William Ely Hill (1887–1962) – „Puck“, 6. Nov 1915, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3836554
こちらの絵、若い女性と老婆、どちらにも見えるというものですが、もう自分は最初、どう見ても若い女性にしか見えず、老婆に見えるという意見が理解できなかったことを憶えています。
まったく同じものを見ているのに、です。
まったく同じものを見ているのに、人によって見え方が違う。
それを理解できないと思うか、それもひとつの視点だと思うか、それだけで、世界の広がりがまったく変わってきます。
2. 「壺」と「顔」を同時に見ることはできない。
さて、人によって見え方が違うことが理解できたとして。
その相手に、どうしたらそう見えるのか? を教われば、だんだん、自分でもその見方をすることができるようになります。
ただし、ここでも注意が。
それは、たとえこの図を「壺」としても「顔」としても見られるようになったとして、同時に「壺」と「顔」を見ることはできない、ということ。
「壺」だと思って見ている瞬間は、顔の部分は地として消えてしまって、「顔」だと思って見ている瞬間は、壺の部分は消えてしまう。
どうやら、人間とはそういうものらしいです。
つまり、意識して見方を切り替えようとしなければ、どちらか一方の視点で固定されてしまう、ということ。
最初に持っていた視点も、かけがえのない、あなただけの視点かもしれません。
どちらか一方の視点だけでいい、というものではありません。
3. といいつつ、「ルビンの壺」と言っている時点で、「壺」であると印象操作されている。
最後に、実はいちばん大切かもしれないこと。
はじめに「ルビンの壺」という表現をしてしまっているので、もしこの図形のことを何も知らない人が見ても、大半は「あっ、これ壺なんだ」と思ってしまうのではないでしょうか。
何も言われずに見たら、「壺」だと思う人と「顔」だと思う人が半々かもしれないのに。
新しい視点を提供するために今までにない表現をする、というのは、もちろんとても効果的。
けれど、自分に都合のいいように、自分と同じ視点を読み手に強要するように、表現や記事のタイトルを言い換えてしまっている例は、残念なことに世の中にたくさんあります。
悪意だけでなく、善意からであったり、ほとんど無意識にそうしてしまうこともあるので、伝え手としても気をつけたいところ。
そして、受け手としても、それに惑わされないようにするためにも、いくつもの視点を切り替えられるようになっておくことが大事。
今回は、「ルビンの壺」…もとい、「ルビンの何かに見えるもの」をテーマに、「視点」ということを考えてみました。
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