百年後にも夕陽は沈む – 天草諸島・五足の靴をゆく

知らない街への旅は、いつの時代も新鮮な驚きと発見に満ちあふれています。

それはいまから百年以上も前、明治40年の夏。
与謝野晶子の夫としても知られる歌人、与謝野寛(鉄幹)は、主宰する詩歌集「明星」の同人とともに一か月の九州旅行に出かけます。

メンバーは与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野萬里、吉井勇。

その旅程は彼ら自身の手で新聞連載され、のちには北原白秋の詩集「邪宗門」など、創作の源泉となります。

時代が降っても、「五足の靴」として知られた、その足跡をたどる人々が絶えません。

今回は、その中心的な目的地である天草諸島(天草市・上天草市)を中心に紹介します。

「五足の靴」では長崎県の茂木港から南下して天草へ向かいますが、旅程の都合で熊本から向かうことにしました。

対岸の島原・天草の乱の終結地となった原城跡にも寄ろうとした場合、本州からは二泊以上は必要になりそうです。
西九州新幹線にも乗ってみたいので、いつかまた訪れる機会がありますよう。

熊本から向かう場合、橋が通じているので車やバスで一気に渡ることができます。
あるいは、特急「A列車で行こう」やシークルーズを乗り継ぐこともできますが、さすがに本題から逸れすぎてしまうので、また別の記事で。

とまれ、天草諸島の〈ナナメ上〉と公式観光ガイドブックで謳われる、上天草市の大久野島から話をはじめましょう。

ここは天草四郎ミュージアム。
天草の乱の首領とされる謎多き美男子・天草四郎を中心に、この地のキリシタン布教と伝道の歴史を解説します。

売店の「ミケネコオリーブ」のオリーブソフトクリームもおいしい。

そして南に向かい、天草上島を通って天草下島へ。市役所のある本渡のあたりは天草諸島でも一番栄えた場所のようです。

かなりの高台にある天草キリシタン館。暑い時期ですし、車で行かなければ向かうのをあきらめていたことでしょう。
「五足の靴」のころは鉄道がようやく開通し始めた時代、ほとんどの道程を文字通り足で走破した明治人の体力に感嘆してしまいます。

日本にキリスト教と西洋医学を伝えた、イエズス会のアルメイダ神父記念碑。

さらに南へ国道266号をひた走り、天草コレジヨ館へ。

コレジヨとは神学校の意味。キリスト教だけでなく宣教師からもたらされた南蛮文化をひろく解説します。

とりわけ印象的なのが印刷物のコーナーです。

元をたどれば聖書普及のためにグーテンベルクが発明したといわれる活版印刷機。
その発明から150年後、帰国した天正少年使節団が持ち込んだ印刷機によって、日本初の活版印刷がこの天草で始まったそうです。

キリスト教布教だけでなく、「伊曾保物語」(イソップ物語)や「平家物語」などローマ字で印刷されたものまであり、現代まで残された〈天草本〉がコレジヨ館に所狭しと並びます。

印刷・フォントの歴史を学ぶと、明治維新後に西洋の活版印刷が輸入され、日本の活字をつくる試みがはじまったと解説されることが多いのですが、いわゆる鎖国によって失われた活版印刷術が、この天草の地にあったことは記憶にとどめておきたいです。

地元のアーティストによって「伊曾保物語」のイソップの生涯を人形で再現した「ESOPOの宝箱」も圧巻です。

コレジヨ館から車で10分程度、﨑津集落へ。

2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」の構成資産として世界文化遺産に登録され、注目が高まっています。

のどかな漁村と、禁教が解禁されてから建てられたという﨑津教会のコントラストが美しい。

集落を見下ろす位置には、﨑津諏訪神社があります。
この地を舞台にした潜伏キリシタン発覚事件「天草崩れ」はブラタモリでも取り上げられていましたね。

信仰というもの、人の幸せのありかたを考えてしまいます。

写真を撮り忘れましたが、近くには﨑津資料館「みなと屋」もあります。

五足の靴記念碑

駆け足で天草諸島をめぐってきました。

大江教会を通ってたどり着いた最西端の下田地区には「五足の靴」の記念碑があり、遊歩道も整備されています。
天候に恵まれれば、東シナ海に沈む夕陽も見ることができます。

時代が移り、人々の生活様式や価値観が変わっても、それらをすべてつつみこむような夕焼けに、悠久の歴史を感じます。

まだ知らない広島へ – 三次もののけミュージアム、中村憲吉記念文芸館

これまで〈広島偏愛シリーズ〉では主に、広島市内のさまざまなものことを紹介してきました。

けれど広島県は、その名のとおり広い。
瀬戸内ときいて頭に浮かぶ海沿いだけでなく、山間部にも多くの魅力的な場所があります。

今回は、そのなかで三次の文芸にまつわるスポットを訪れてみます。

三次駅前の観光案内所には、アマビエのもととなったとされる予言獣・アマビコ(尼彦)がお出迎え。
三次は「稲生物怪録」という、江戸時代に生まれた実話系怪談の舞台です。

三本の川が交わる三次(みよし)市。駅から川を越えた先に広がるのが三次町で、駅周辺の地名は「十日市」だそう。
写真を撮り忘れましたが「三次市十日市町」という表記を見たときは、ちょっと驚きました。3なのか10なのか。

参考までに、写真に写っている鉄橋は廃線になった旧国鉄・JR三江線の鉄道専用橋で、いかにも渡れそうで渡れません。
三江線については次の記事で取り上げました。

島根と広島の県境に立つ – 江の川鐵道トロッコ体験

そんな謎多き駅前から車で数分、「湯本豪一記念日本妖怪博物館 三次もののけミュージアム」にやってきました。

もののけミュージアム

インタラクティブな映像を交え、さまざまな妖怪の来歴を楽しく学べます。

チームラボの「妖怪遊園地」を利用する場合は料金が変わります。

人面草紙

個人的に、この「人面草紙」のキャラクターがかわいくてお気に入り。

ミュージアムを楽しんだ後は、アマビコさまとパイロンさまに誘われて「もののけ小路」へ。

もののけ小路

石畳の風情ある街並みがひろがっていました。

三次マンホール

みよし・うかいマンホール。

井戸

なんだか気になる漆喰塀の酒蔵と井戸。
タイミングが合えば、お地蔵さまと一緒におひるねするお猫さまが見られるそうです。

ゆっくりと散策するのも楽しそうですが、今回はこのあたりで、次の目的地に向かいます。

布野村マンホール

遠く島根県までのびる国道54号を車で北へ30分ほど。
現在は三次市布野町ですが、旧国道には布野村と書かれたマンホールが残っていました。

ここ布野を中心に活躍したアララギ派歌人・中村憲吉の生家が、記念文芸館として整備されています。

布野図書館

となりの布野図書館も、山あいの風景に調和して美しい。

中村憲吉記念文芸館案内図

中村憲吉記念文芸館は無人で、自由に観覧できます。

同じアララギ派として親交のあった、土屋文明や斎藤茂吉の歌碑が軒先にあります。
もちろん中村憲吉本人の短歌も。霧で有名な三次、霧の季節にも訪れてみたいですね。

ふるさとの山がはの町は夜霧して空にいざよふ十日餘の月 (中村憲吉)

中村憲吉記念文芸館 庭園碑

外から見ても実に立派な建物です。
ちなみに右側に見える木がアララギでしょうか?

館内の資料によれば、憲吉は地元の名家だったようで、短歌だけでなく布野の将来を見据えたヒノキの造林事業などにも手がけていたそう。
ヒノキは平成になって切り出され、道の駅などに活用されています。

中村憲吉は出版された歌集は少ないものの、千光寺公園など瀬戸内各地に歌碑が建てられ、多くの人に愛されていることがうかがえます。
歌人仲間との交流でいえば、斎藤茂吉や島木赤彦らと五人で合作した掛け軸のレプリカが印象的でした。
実物は松山市の正岡子規記念館にあるそうで、また松山にも行ってみたくなりました。

時を超えても形を超え、語り継がれる。
その魅力の一端にふれる旅でした。

たまきわるいのちはいつか土へとかえる – 瀬戸内国際芸術祭2022 夏・豊島

香川・岡山の島々では瀬戸内国際芸術祭2022の夏会期が9月4日まで開催されています。
春会期と同じく無理せず、密を避けてのんびりと瀬戸内の自然を楽しみましょう。

無理せず楽しむ、瀬戸内国際芸術祭2022 – 春・沙弥島

前回の記事、 世界初の公共交通・DMVに乗って、むろと廃校水族館へ の翌日に高松を訪れました。

商店街では今回も芸術祭会期に合わせて、さまざまな催しが行われています。

丸亀町グリーン

高松丸亀町商店街の「おいでまい祝祭」。

丸亀町グリーン
中心となる丸亀町グリーンの「漂う椅子」。
丸亀町グリーン
時間が合いませんでしたが、ヤノベケンジさんの「モフモフ・コレクティブ」気になりますね!
みる誕生
高松市美術館では鴻池朋子展「みる誕生」が開催中です。

かわいくてちょっとせつない、いきものたちの姿を描く絵画・彫刻・インスタレーションと充実の内容でした。

豊島家浦港
続いては高松港から豊島(てしま)家浦港へ向かいます。
タコタコ海上タクシー
タコタコ海上タクシー気になります。屋根にうっすら残るのもタコのイラスト…?
豊島横尾館
家浦港近くには横尾忠則さんと建築家・永山祐子さんの「豊島横尾館」があります。
昔のパソコンやゲームのようなビットマップフォントのロゴが印象的。
豊島横尾館
母屋の中は撮影禁止ですが、庭の鯉が床下を通りぬける様子が楽しめます。
なかなかタイミングよく鯉がこない。
針工場

少し歩いて、大竹伸朗さんの「針工場」まで。
漁船の木型を莫大小(メリヤス)針工場におさめた作品です。
となりの資料館にも映像や関連書籍の展示がありましたが、あまり時間がなく、じっくり見られなかったのが惜しい。

かげたちのみる夢
バスで島の南、甲生(こう)漁港まで。

冨安由真さんの「かげたちのみる夢」。廃屋のような古民家に、小泉八雲「和解」をモチーフにした幻想的な空間を生み出します。

かげたちのみる夢
かげたちのみる夢
今はもうない祖父母の家で過ごした夏休みを思い出し、たまらない郷愁を感じます。
種は船
港では日比野克彦さんの「種は船 TARA JANBIO」の船が泊まっていました。

ガイドブックでは粟島aw11として紹介されていますが、夏会期は豊島で活動されるそうです。海から発掘されたものの収集、展示を行なっています。
こちらも帰りのバスの時間が迫っていたので、あまりゆっくり見られず。
のんびりと、と言っておきながら時間に追われるのはよくないですね。

いったん家浦港まで戻ってバスを乗り換え、唐櫃岡(からとおか)まで。

島キッチンは予約制なのを忘れていましたが、カレーとドリンクだけなら空きがあればテラス席で食べられるそう。

唐櫃岡の清水

実に見事な石組が歴史を感じさせます。
古くから豊島の人々に大切にされてきたという、唐櫃の清水(共同用水場)があります。

荒神社
神社の鳥居をはさんで清水の反対側には、青木野枝さんの彫刻「空の粒子」がただずみます。
空の粒子

制作から十年ほど、作品もまわりの自然とじょじょに溶けこんでいくよう。

西本喜美子写真展

少し集会所のほうまで戻り、「西本喜美子写真展 ひとりじゃなかよ」へ。

70代になってから写真を始めたという西本さん、その独創的な写真とキャプションに思わず笑みがこぼれます。
書籍も手にとって読めるようになっていました。

西本喜美子写真展

台所の裏にもこっそり作品があるのでお見逃しなく。

さて、いよいよ最後は豊島美術館に向かいます。

ゆっくりと港の方へ下り坂を歩いていくと、突然視界が広がり、瀬戸内海が一望できます。

豊島
サイクリングの人々も次々に歓声をあげて通り過ぎていきます。

芸術祭をきっかけに周辺の棚田の再生も進められており、豊島美術館はその中腹にあります。
芸術祭パスポートは使えないのでオンラインで事前予約が必要です。

豊島美術館 | アート・建築をみる | ベネッセアートサイト直島

豊島美術館の美術館鑑賞案内・料金、アーティストなどの情報をご覧いただけます。

豊島美術館
周囲と調和する、低いコンクリート造のミュージアム本館とショップ。
豊島美術館
ロゴは信頼の筑紫明朝ですね。

すべて豊島に自生する植物、雑草を選んだという庭を回遊しつつ建物に入ります。

豊島美術館

建物内は撮影禁止、物音すら立てるのをはばかられる静寂が支配します。

モノクロームの空間に、大きな開口部から自然の光がふりそそぐ。
床からは「母型」とよばれる小さな泉があちこちから湧き出し、水たまりを作りつづける。
表面張力でつくられるみずたまをじっと見つめていると、まるで生命のようで。
やがて重力にひかれ、また別の穴に吸いこまれていく。

はじめての探訪でしたが、また何度でも来たいと思わせる、島と一体となった魅力を実感しました。

みずたまは生きもののよう玉きわるいのちはいつか土へと還る
—— 和泉みずほ

無理せず楽しむ、瀬戸内国際芸術祭2022 – 春・沙弥島

いよいよ今年も、三年に一度の瀬戸内国際芸術祭がはじまりました。

春会期は2022/5/18(水)まで。
夏会期は今のところ前回より少し遅く8/5(金)からの予定だそうです。
この情勢なので基本的な感染症対策は十分に行った上で、体調を最優先で無理せず楽しみたいと思います。

なかなか遠出がしづらい、という方も多いでしょうが、気のふさぐことも多い中、島々の自然とアートをじっくり味わえる、またとない機会でもあります。
瀬戸内は、いつだって、そこにある。

混雑や公開状況など、最新情報は公式アプリやウェブサイトをチェックするのが確実です。

https://setouchi-artfest.jp

さて、この記事では春会期だけオープンする沙弥島(しゃみじま)会場について紹介します。
香川県坂出市・沙弥島は瀬戸大橋のたもとにあり、現在は四国本島と地続きになっています。
さらに2022年は、対岸の与島にも作品が存在するので、併せて訪れました。

まずは岡山から快速マリンライナーで瀬戸大橋を渡ります。
進行方向右側の席が空いていたら僥倖です。
四国上陸近く、瀬戸大橋タワーが見えてきたら、その向こうに沙弥島を見渡せます。

沙弥島・与島へはJR坂出駅からシャトルバスが出ていますが、今回は瀬戸大橋を車で走ってみたかったのでカーシェアで向かいます。

なお、作品の鑑賞には検温済みの証であるリストバンドが必要ですが、沙弥島・与島どちらも案内所(検温スポット)があるので、どちらに先に向かっても問題ありません。
リストバンドの柄は毎日変わるので、記念にもなります。

沙弥島から眺める瀬戸大橋。

旧沙弥小中学校、レオニート・チシコフの「月への道」が、今回の目玉作品です。
月を目指す人々の夢と郷愁が、図書室や理科室といった舞台と見事にシンクロしています。

地球儀かと思ったら、見慣れない地名ばかり。いわゆる月球儀でした。

校庭に出ると、「月への階段 あるいは柿本人麻呂の月」が待ち受けます。

万葉歌人・柿本人麻呂はここ、沙弥島のナカンダ浜で海を眺めたと言います。
作品には以下の短歌が添えられていました。

天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ

柿本人麻呂,「万葉集」巻七

令和の我々は、月までは簡単に行けなくても、対岸までは労せず渡れる技術力を手に入れました。
その恩恵を噛みしめつつ、高速道路(瀬戸中央自動車道)で、坂出北ICから与島PAへ。
ちなみにPA出口には分岐線があって元の四国側に戻ることができますが、しっかり往復分(2000円超)の料金は取られます。

さすがに運転中に撮る余裕はありませんが、高速道路は電車より一階層上にあるので絶景です。
与島PAには御製・御歌(上皇・上皇后両陛下が在位中にお詠みになられた歌)がありました。
PAから瀬戸芸作品のある鍋島灯台までは、徒歩10分ほど。
見慣れた瀬戸芸作品の看板を見つけましょう。
瀬戸大橋の下をくぐって灯台へ。島の日常風景と、壮大な架橋の対比を楽しめます。
バス停こと、「月への旅の途中 最終駅」で宇宙飛行士が待っていました。

どことなく天文台を思わせるフォルムの鍋島灯台は、明治5年に、その火を灯しはじめました。
穂村弘さんの短歌が好きな方なら、灯台守のロマンが息づいている、と言えば通じるでしょうか。

なお今回の道のりは、以下のブログ記事を参考にしました。

【瀬戸芸 2022】瀬戸内海で最も古い近代灯台。与島、鍋島灯台 – Nabeshima Lighthouse | 物語を届けるしごと

最後にもう一箇所。
瀬戸内国際芸術祭自体の作品ではありませんが、同時期に神戸芸術工科大学の「瀬居島アートプロジェクト」が開催されています。

会場は沙弥島から高速道路をはさんで反対側の瀬居島(せいじま)で、やはり地続きなので車やバスで向かえます。

ただし駐車場やバス停から点在するアートを全部見て回ると2時間くらいかかると言われたので、訪問は計画的に。

瀬居幼稚園前のパイロン(これが作品そのものではありません)

2021年、不確実な世界を生きてゆく10冊+読書マップ

2021年の大晦日です。

アフターコロナを叫ぶ本は多くあれど、ものごとは年の区切りのように〈はじまり〉と〈おわり〉をはっきりつけられるものなのだろうか、と思っています。
そんなはっきりしない状態が不安だからこそ、人は区切りや区別をつけたがるのかもしれません。

さて、そんな時代に読みたい本とは。
いつものように時流に乗りすぎず、新刊にこだわらず、今年読んで個人的に印象深かった本を取りあげます。

去年までの〈今年の本〉記事はこちら。

昨年から導入した〈読書マップ〉です。

一年ぶんをまとめると冊数が多すぎるので、それぞれのブロックごと、黄色の枠で囲った10冊を中心に紹介していきます。
ここに取り上げられなかった本を含めて、毎月の読書マップは note にて公開しています。

短歌

今年もたくさん短歌を読み、詠みました。

東直子・穂村弘「短歌遠足帖」

歌人のお二人が、ゲストとともにさまざまな場所を訪れ、短歌を詠む吟行の様子を一冊にした本です。

なかなか外出がままならない時期もありましたが、個人的にも実際に吟行ツアーに参加したり、そうでなくても訪れた場所をテーマに短歌を詠むのは本当に楽しく、思い出の解像度も上がります。

この本にも登場する歌人の岡井隆さんは2020年に亡くなられました。
加藤治郎さんによる「岡井隆と現代短歌」(短歌研究社)で、その業績と現代短歌史を概説することができます。

新鋭の歌人としては寺井奈緒美さん「アーのようなカー」(書肆侃侃房)、工藤玲音(くどうれいん)「水中で口笛」(左右社)などが印象にのこりました。ともに日常エッセイ的な文章も楽しい。

科学・数学

ティ・カップに内接円をなすレモン占星術をかつて信ぜず

杉崎恒夫「食卓の音楽」六花書林

こちらは天文学者でもあった杉崎恒夫さんの歌集「食卓の音楽」冒頭の一首です。

科学と詩的世界は意外に親和性がよいのか、岡井さんは医学部出身、永田和宏さんも短歌と生物学の両方で顕著な業績をあげられています。

タイトルつながりでマーカス デュ・ソートイ「素数の音楽」も読みたい。

「ネコはどうしてわがままか」は、動物行動学者・日高敏隆さんの名エッセイです。
あっ、ネコが塀の上を歩いているので、あとで追いかけましょう。

「三体問題」(ブルーバックス)はSF小説の元ネタにもなった数学・天文学上の難題に挑む人々の400年の歴史を描きます。

カルロ・ロヴェッリ「すごい物理学講義」

2021年7月の読書マップ – 人生と科学の意義 でも取り上げたように、不確かだが「目下のところ最良の答えを教えてくれる」科学の本質を知ることができます。

コトバと心

「新薬という奇跡」は、まるでギャンブルのような成功率の創薬に挑む人々のものがたり。

医学は科学でもあり、人の心身という不確実なものを相手にするものでもあります。

春日武彦「奇想版 精神医学事典」

穂村弘さんと精神科医・春日武彦さんの対談本「ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと」から飛び出したネコを追って、春日さんの本を何冊か読みました。独特の鬱屈感ある文体が癖になります。

中でもこの本は、精神医学的な見出し語を連想ゲームのようにつなげつつ、古今東西さまざまな事物を引用していく驚きの一冊で、読むのにものすごく時間がかかるのでご注意ください。

驚きといえば、書店でタイトルを見て手をとった「自閉症は津軽弁を話さない」は、その分析結果もまた意外なものでした。

川添愛「言語学バーリ・トゥード: Round 1 AIは『絶対に押すなよ』を理解できるか」

こちらもタイトル買い。もはやなんでもあり、場外乱闘的な言語遊戯の世界が楽しい。

古今東西の俳句を学習する〈AI一茶くん〉プロジェクトの軌跡をたどる「人工知能が俳句を詠む」。本当にすごいのは、AIの詠む俳句で感動できる人間です。

将棋

大川慎太郎「証言 羽生世代」

AIがトップ棋士の能力を上まわったと話題になったのは数年前のこと。
そんなAIとの共存が当たり前になった将棋界はいま、藤井聡太という天才の出現によって湧き上がっています。

藤井さんや羽生さんと同じく中学生で棋士になった17世名人・谷川浩司さんが、天才棋士を語る「藤井聡太論 将棋の未来」

その谷川さんを倒し史上初の七冠王を達成した羽生善治さんと、同年代の棋士たちへのインタビューをまとめたのが「証言 羽生世代」
平成の将棋界を席巻した羽生さんも、通算タイトル100期を目前に、ちょうど元号が変わるころタイトルを失います。
藤井さんのデビューもあって世代交代の印象を強くしますが、まだまだこの世代の層は厚く、これから50代、60代になってどんな将棋を見せてくれるのかも楽しみです。

 

そして、そんな羽生世代と戦い、なかなかタイトルに手が届かなかったものの、40代で史上最年長のタイトルを獲得した木村一基九段の言葉をまとめた「木村一基 折れない心の育て方」も、これから40代をむかえるわたしには、とりわけ心を打たれました。

生き方・働き方

「さよたんていのおなやみ相談室」

不確実な世界、いくつになっても人は迷うものです。

そんなときこそ読書が心の支えになってくれる、若松英輔「読書のちから」

何歳になっても自分のキャリアをやり直せる「ライフピボット」

それでも迷うあなたは「さよたんていのおなやみ相談室」へどうぞ。

関西に住む小学生の女の子が、人々の悩みを鋭く解決。手書きの文字とイラストもかわいい。
関西の人気番組「探偵!ナイトスクープ」が好きな人には絶対におすすめです。

歴史と人のミステリー

筒井康隆「ジャックポット」

SF・文学界の巨匠、86歳にしての最新短篇集です。コロナ禍を疾走する表題作はじめ、言語と文学の可能性をつきつめる筒井作品。
今年はとりわけ、いくつもの過去作品が復刊・重版され、まだ筒井康隆を知らない人に届いていくのが嬉しい。

「ジャックポット」中のとある短篇では、森博嗣さんや円城塔さんなど作家の名前が多く挙がります。
円城塔「文字渦」もまた文学(あるいは文字)の歴史に挑戦する小説。コロナ禍に文字渦(言いたいだけ)。

森博嗣「歌の終わりは海 Song End Sea」は英語タイトルが意味深。不気味なほどにリアルな世界観は、このままコロナ禍を描くシリーズになるのかどうか。

森博嗣さんに続くメフィスト賞受賞者の清涼院流水さんは近年、英訳者として活躍しています。
「どろどろの聖書」を読めば、キリスト教になじみがなくても(ないからこそ?)強烈なエピソードが頭に入ってきます。


日常と都市鑑賞

「日本建築集中講義」では建築史家の藤森照信さんと画家・山口晃さんが、全国各地の著名建築を訪ねて歩きます。二人の掛け合いも楽しい。

藤森照信さんや赤瀬川原平さんらによってはじまった〈路上観察学会〉は、路上観察や都市鑑賞という一大ジャンルを生み出しました。

東京オリンピック2020の開会式で話題になったピクトグラム。「世界ピクト図鑑」は、路上観察的な楽しみ方もできつつ、まちづくりやデザインの観点からも学びが多いです。

「水路上観察入門」は暗渠を研究する吉村生・高山英男のお二人による〈水・路上〉あるいは〈水路・上〉を楽しむ一冊。

パリッコ「ノスタルジーはスーパーマーケットの2階にある」

酒場ライター・パリッコさんが、コロナ禍で酒場に行けないなか見出した〈新しい日常〉。
時が止まったようなスーパーマーケットの2階。駄菓子の味くらべ。このこみ上げる叙情はいったい何なのでしょう。

藤井基二「頁をめくる音で息をする」

尾道にある、深夜営業の古本屋・弐拾㏈の店主によるエッセイ。装丁も含めて美しい本です。
瀬戸内・ひろしま・尾道という、そこに住まない者にとっては旅情あふれるまちでつづられる日常は、どこか非日常に存在がしみ出るよう。

そうして日常は続き、それでも詩情は消えない。

そんな世界を、生きてゆく。

2022年も、よいお年を。