2021年7月の読書マップ – 人生と科学の意義

2021年7月の読書マップです。

スタートは2021年6月の読書マップから「藤井聡太論」。7月も将棋タイトル戦を連戦連勝、藤井聡太さんの勢いが止まりません。
いっぽうで王座戦挑戦者決定戦は「受け師の道」木村一基さんと将棋連盟会長の佐藤康光さんという組み合わせになったりと、40・50代棋士の活躍も見どころ。

この本から、河口俊彦「一局の将棋 一回の人生」をつなげてみます。
時代は昭和のおわりから平成のはじめ、羽生善治さんや佐藤康光さんなどがプロデビューしたころ。
自身も棋士である河口さんのエッセイは生々しい時代の空気をとらえ、のちに平成の将棋界を席巻することになる〈羽生世代〉の強さに半信半疑だったというのが今では信じられないかもしれません。
棋士によって指される何十、何百という対局と、「一回の人生」を対比させる描き方も読み応えがあります。

続けて、さまざまな人の〈生き方〉を感じとれる本が先月は印象的でした。

「若ゲのいたり」はご自身もゲーム会社に勤務していた漫画家・田中圭一さんによる対談マンガ。
「ファイナルファンタジー」や「ぷよぷよ」などの有名ゲームに携わったクリエイター、「MOTHER」を作った糸井重里さんなど、ゲームに人生をかけた人々の情熱が伝わります。

「須賀敦子全集」若松英輔さんの「読書のちから」の本で知った『ミラノ・霧の風景』『コルシア書店の仲間たち』などが収録されています。
イタリアで暮らし、書店仲間と共にあった著者の、優しく、ときに哀しげな文章が心にのこります。

「本のエンドロール」は印刷会社を舞台に、出版業界の内幕を描く安藤祐介さんの小説。
ときに無理難題を押しつける編集者や著者に振り回されたり、電子書籍に複雑な思いを抱く印刷工と経営層の対立があったり、「紙の本が好き」という人にも「電子本も良い」という人にもおすすめしたい本でした。
今回は紙の本で読みましたが、電子だと「エンドロール」はどうなっているのでしょうね?

電子化に積極的な作家と言えば森博嗣「お金の減らし方」。趣味の庭園鉄道を実現させるためのアルバイトに小説を書いたと公言する森さんらしく、独特の調子で、お金の増やし方ならぬ減らし方を指南します。

「毎日は笑わない工学博士たち」は、そんな森さんの作家デビュー直後のブログを書籍化したもの。このシリーズは幻冬舎から全5巻刊行されています。
まだ某国立N大学に勤務されていて超多忙、毎月のように東京出張に行く森助教授(当時)の日常は、いろいろな意味で今読み返すと隔世の感があります。

科学者でもありエッセイストとしても知られた戦前の作家と言えば寺田寅彦。角川ソフィア文庫「科学と文学」はKADOKAWAの株主優待でした(笑)。
映画や連句といった芸術に共通する構造を分析したり、文学を科学者の観点から語るエッセイには、今でもいくつもの新たな発見があります。

井上夢人「魔法使いの弟子たち」は電子で以前に買ったまま、たまたま読んだら、おそるべきパンデミック小説でした。
謎のウイルス性疾患〈竜脳炎〉の感染が拡大した世界。奇跡的に恢復した主人公たち三人には、信じがたい異能力が備わっていた…
寺田寅彦の言葉を借りれば「実験としての文学」の想像力を感じます。

ここからは科学本。カルロ・ロヴェッリ「すごい物理学講義」は先月の「アインシュタイン方程式〜」でいえばタテガキの物理本ながら、哲学や文学のようにも読める名著。
作中の、科学は不確かだが「目下のところ最良の答えを教えてくれる」という言葉が胸に沁みます。

地学本の注目は「日本列島の『でこぼこ』風景を読む」。複雑に入り組んだ日本列島の成り立ちをひもとくことで、ランドスケープとしての日本の美しさを再発見できます。

そして「まっぷる」シリーズで知られる昭文社からも、「愛知のトリセツ」のように各都道府県の地理・歴史を解説した本が続々と登場しています。
地元や好きな県の本を手にとってみると、意外な発見があるに違いありません。
そしてまた、さまざまな場所に行ける日が来ることを願って。

2021年5月の読書マップ

今回から定期的に、おすすめの本を二次元的に整理する「読書マップ」をつくっていきます。

毎月読んだ本を中心にしつつ、それまで読んだ本でも著者や内容が似ているものを加え、自由な視点でつなげていきます。なお、新刊に限らず古本、電子本、家の本棚に眠っていたものなどが混在しているので、現在入手困難なものが含まれますがご了承ください。

読書マップ2021年5月

まずは4月の最後に読んだ高原英理「歌人紫宮透の短くはるかな生涯」(立東舎)から。

1980年代に活躍した紫宮透という架空の歌人を主人公に、彼の短歌とその解説を軸に、彼の生きた時代を虚実取り混ぜて描いた独特な小説です。
穂村弘さんの対談集「あの人と短歌」には、本書を執筆中の高原さんとの対談が収められています。高原さんが紫宮透として詠んだ歌に対する穂村さんの解釈も小説に生かされていて、両方読むと楽しい。

さらに穂村弘つながりで「短歌遠足帖」(ふらんす堂)と「きっとあの人は眠っているんだよ」(河出文庫)。

「短歌遠足帖」は同じく歌人の東直子さんと一緒に、萩尾望都さん、麒麟の川島さんなど多彩なゲストとさまざまな場所を訪れて短歌を詠む。同じものを見ていても切り取りかたがまるで違う、吟行ツアーは本当におすすめです。

「きっとあの人は眠っているんだよ」は日々買った本、読んだ本を紹介していく読書日記。
panpanyaから筒井康隆まで、穂村さんの読書の嗜好はおどろくほどわたしと近く、読書マップで紹介していくと我が家の蔵書全部とリンクしそうな勢いなので自重します(笑)。
その思考回路に近いものを感じつつ、短歌においては共感よりも常人の発想を超えた奇想が中核にあることも穂村さんの魅力ではないかと思いつつ、その話はきっとまた来月。

歌集では音楽を感じさせるタイトルの工藤玲音「水中で口笛」(左右社)、杉﨑恒夫「食卓の音楽」(新装版/六花書林)とつなげてみます。

杉﨑恒夫さんは東京天文台に勤務されていた方ですが、同じく天文学者である石田五郎さんの文章も近い詩性を感じます。代表作「天文台日記」が良かったので「星の歳時記」(ちくま文庫)を古本屋で見つけて購入。四季折々の星座、天文現象を歳時記の形で描くエッセイで、短歌も紹介されています。
ちなみに〈杉﨑恒夫 石田五郎〉でGoogle検索してみたら1件もヒットせず、このリンクにほとんど誰も気づいていないとしたら驚きです。

数学上の難問を取り上げた本としては、SF小説で有名になった〈三体問題〉を数学的・天文学的な視点から解説した浅田秀樹「三体問題」(講談社ブルーバックス)に、素数にまつわる謎〈リーマン予想〉が意外な形で素粒子の世界とシンクロするマーカス・ドゥ・ソートイ「素数の音楽」(新潮文庫)もおすすめ。

大人になってもこのような知的好奇心を満たす勉強・個人研究の大切さを語る森博嗣「勉強の価値」(幻冬舎新書)は、「ライフピボット」(インプレス)とも親和性が高そうです。

ライフピボットはこちらの記事で取り上げましたが、この本で継続の大切さを再認識したこともあり、個人的に提唱している〈読書マップ〉もコツコツ発信を続けていきます。

〈読書マップ〉は読んだ本人だけに意味のあるものに見えて、それをアウトプットすることで、思わぬ形で思わぬ誰かのためになるかもしれません。

そんなライフピボットでいう発信とギブの関係は〈利他〉という考え方にもつながってきます。
中島岳志さん・若松英輔さんなど東工大「未来の人類研究センター」のメンバーによる「『利他』とは何か」(集英社新書)は、ライフピボットの出版記念オンラインイベントでも触れられていました。

それとは別に、書店でタイトルに惹かれて手にとったのが松本敏治「自閉症は津軽弁を話さない」(角川ソフィア文庫)。
いわゆる自閉スペクトラム症、非定型発達の子供たちは津軽弁などの方言を話さない、という都市伝説のような噂を臨床的・学術的に検証していく本です。やがて明らかになる、方言・話し言葉とコミュニケーションの密接な関係に驚きます。

以上が2021年5月の12冊。この中から、また6月の読書マップにつなげていきたいと思います。

ブログ五周年と、言葉にならないことば

きょう、令和3年3月6日で、ブログ〈凪の渡し場〉は五周年をむかえます。

五年前、当時よく参加していた勉強会と、そこからひろがった交流に刺激をもらい、自分なりの世界の楽しみかた、視点をいろんな人に知ってもらいたいと思って立ち上げたサイトです。

夕霧が世界を包むその前に さあ漕ぎ出そう凪の渡し場

About に掲出したこの短歌は、最初の記事をもとにして一年前に詠んだものですが、ちょうどそのころから、世界はまるで先の見えない霧に包まれたように様変わりしてしまいました。

霧の中で、発するべき言葉も、とどけるべき相手も見失いそうになるなか、もういちど〈ことば〉の意味を考え直そうと思える本にめぐり逢いました。

若松英輔さんの「読書のちから」は、ご自身が苦しみ、危機にある中で出逢い、救われた言葉について書かれた本です。

とくに、1960年代のミラノでカトリック改革に取り組んだ須賀敦子さんについて書かれた章が印象にのこります。

いっぽう、孤独のときは、人生になくてはならない。孤独のときこそが人に、自己のみならず、他者とそして、大いなるものとの静謐な対話をもたらす。しかし、孤独と孤立の差異が、あるときはよく分らなくなる。

若松英輔「読書のちから」(亜紀書房)p.46〈コトバを運ぶ人〉より引用

読書を通して、わたしたちは遠く離れた場所や時代を生きた人と、学者や宗教者といった知性と対話することができます。

ふしぎなことに、ある種の〈ことば〉には、時空を超えてとどく力があります。
遠い場所、異なる時代背景にいる人びとにかけられたはずの言葉が、いまを生きる自分にむかって投げかけられているように思えるときがあるのです。


もう一冊紹介した「言語の起源」は、なぜ人類が、このような〈ことば〉を発明できたのか、言語学者の視点だけでなく、人類学・考古学・脳科学にいたるまでの最先端の知見から明らかにしようとする本です。

〈ことば〉によって、ヒトは他者との効率的なコミュニケーション手段を得ることができました。

けれど、その発明は実は、とても不完全なものでもありました。

〈ことば〉の裏には、言葉にならない暗黙の価値観や文化が含まれていて、言語によるコミュニケーションとは、聞き手もその価値観を共有していることを前提として成り立つのです。

だから、ときにすれ違い、互いの意図を誤解したりする。

あるいは、文字通り言葉が通じない相手、違う価値観をもつ集団との対立が生じる。

けれど、文字というもうひとつの発明により、〈ことば〉は話し言葉だけでなく書物として残され、より遠くまでとどく伝道の翼を得ることができました。


もう一度若松さんの本から言葉を引きます。
須賀敦子さんを象徴する一語を〈霧〉、あるいは〈聖人〉とする章から。

(前略)彼女にとって「書く」とは、「霧の向う」で生きている人たちに言葉にならないおもいを届けようとする試みだった。

若松英輔「読書のちから」(亜紀書房)p.50〈霧の人〉より引用

ここでいう〈霧〉とは異界をあらわすものでありながら、けっして行き来できない存在ではありません。

言葉にならない〈ことば〉を伝えようとする人に敬意を表しながら、わたしはこう思います。

霧の中で自分の言葉が見つからない、進むべき道が分らないときは、あえて歩みを止めて、霧のむこうからとどく言葉に耳をすませてもいいのではないかと。

もちろん、これは誤読に近いでしょう。

けれど、そんな誤解・誤読こそが、〈ことば〉が時空を超えてとどく原動力であり、言動力でもあるのかもしれません。