まちなかで、あるいはパソコンやスマートフォンの画面の中で、わたしたちが毎日目にする文字。
そんな文字を作る仕事が、世の中にはあります。
その中でも、小説の文章や新聞記事といった、小さな文字のために作られたフォントを「本文書体」といいます。
広告や看板のロゴのように目立つものではなくても、普通に読めて、受け手に安心感を与える。
日本人なら毎日食べても飽きのこない白ご飯のように、あって当たり前の存在。
そんな本文書体を「水のような、空気のような」書体とよび、その理想を目指してフォントを作り続ける人が、この世にはいます。
それが、游明朝体などで知られる字游工房の代表取締役、鳥海修さん。
「水のような、空気のような」書体なら、誰が作っても同じではないのか。もうすでにあるものを使えば、新しく作る必要はないのではないか。
もし、そう思ったのだとしたら、この本を読んでみてほしいと思います。
この本では、鳥海さんの生い立ちから、本文書体を作りたくて当時最大のフォントメーカーだった写研に入社したときのこと、そして字游工房を立ち上げてからのことなどが語られます。
いっけん無個性に見えるフォントでも、そこには作り手の想いや、今の時代にもっとも適したデザインがひそんでいることがわかります。
鳥海さん自身の経験、出逢った人、読んだ本…それらが結晶となって、誰でもが使えるフォントが生み出される。
ふだんはうかがい知ることができない、そんな結晶化する前のエピソードのひとつひとつが、とても魅力的です。
たとえば、書家・石川久楊さんを交えて行った「究極の明朝体」を作るというプロジェクト。
本文書体として見慣れた明朝体ですが、実際に文字をなぞってみるとわかるとおり、もともとの楷書とはずいぶん違うデザインになっています。
それらを一文字一文字検証し、文字に修正を加えていく。少しの修正で、まるで受ける印象が異なるのが、漢字のふしぎなところ。
また、「文字塾」として、塾生ひとりひとりが作りたいフォントのコンセプトを立て、一年かけてフォントをデザインしていくといったことも行われているそうです。
そして、アップルのMac OS X (macOS)に搭載されたことで有名になったヒラギノ明朝体。
このフォントも、字游工房が大日本スクリーン製造(現・SCREENグラフィックアンドプレシジョンソリューションズ)から依頼されて制作されたもの。
当時のことを、鳥海さんはこう記します。
当日はスティーブ・ジョブズがステージに立ち、スクリーンいっぱいに映し出されたヒラギノ明朝体W6の「愛」を指差し、「クール!」と叫んだことをきのうのことのように覚えている。
後に、字游工房としてのオリジナル書体・游明朝体や游ゴシック体もMacに搭載されています。
考えてみれば、「空気のような」というコンセプトは、MacBook Air、AirPods など「Air(空気)」を冠する製品やサービスを多くリリースするアップルにふさわしいといえるでしょう。
もし将来、アップルと字游工房が協力し、オリジナルの日本語フォントを手がけたとしたら。
それはAirFontと呼ばれるに違いありません。
そんな空想も膨らむ、文字を生み出す人の物語。