いのちをつむぐ森へ – 万博住友館のふるさと・別子銅山
約半年間にわたった、2025年大阪・関西万博が閉幕しました。
パビリオンだけでなく、ミャクミャク・こみゃくといったキャラクター・サインデザインにまでも注目が集まり、デザイナーや訪れた人々が自発的に魅力を発信する、あたらしい関係性が印象的でした。
なかでも人気により予約困難となったパビリオンのひとつに、住友館〈UNKNOWN FOREST〉がありました。

わたしも数回の事前抽選や当日予約にチャレンジしたものの、残念ながら入ることができませんでした。
パビリオン横のショップ・企画展示室だけは自由入場できたので、せめて、そのコンセプトと背景を学びます。

どうやら、住友館の建築は、愛媛県にある〈別子の森〉の峰をモチーフにしているようです。
そもそも現在の住友グループ自体が、別子銅山の採掘からはじまった企業体なのだそう。
約300年におよんだ銅山採掘、そして数千年・数万年という単位ではぐくまれた銅鉱の歴史。
たった半年間の万博パビリオンは、それを未来のいのちにつむいでいくための、短い、けれどとても大切な場であったのです。
そんな住友館のふるさととも言える場所が大好きな四国・瀬戸内にあるとなれば、行かねばなりますまい。

ちょうど瀬戸内国際芸術祭の秋会期で四国を訪れていたので、JR四国・宇多津駅から松山行きの特急に乗り、新居浜駅に降り立ちました。
香川から愛媛をつなぐ予讃線の車窓は、瀬戸内海の絶景が楽しめます。
そのなかで新居浜は工場が林立する工場地帯、いままで気づきませんでしたが、そのほとんどが住友グループの土地だそう。
かつては銅山と港や国鉄新居浜駅をつなぐ別子鉱山鉄道も運行されており、廃線になった現在も、自転車歩行者専用道として地域の足になっています。

まずは、駅から車やバスで10分程度の距離にある、別子銅山記念館を訪れました。
館内は撮影禁止ですが、入館無料で、別子銅山の歴史を実際に使われた機材や模型とともに学べます。
江戸時代、この地に銅山が発見されて以降、明治維新による近代化を経て、地下採掘場は縦横無尽に広げられ、海抜1,300mから地下1,000mにも及びました。
1970大阪万博の前年には最後の大斜坑が完成したものの、採掘量と品位低下によって1973年に閉山。その2年後に建てられたのが、この記念館です。

となりには鉱山の安全を願った大山積神社があります。(本殿は現在立入禁止)

前庭には、鉱山の歴史をうたう歌碑もありました。
この銅山(やま)を神とし仰ぎ幾代かも掘りつぎて来しことの畏こさ

記念館の屋上にはサツキが植えられ、五月ごろには一斉に花を咲かせるとのこと。
さて、さらに山の中腹まで向かいましょう。

戦前まで鉱山の中心地となっていた端出場(はでば)ゾーンには、〈マイントピア別子〉があります。

観光坑道まで向かうトロッコ列車も運行されています。

車内では声優・水樹奈々さんのナレーションが流れるので必聴です。


10月でも外は30度に迫る気温でしたが、坑道内はとても涼しい。

全長333mの坑道内は、模型や小さな遊園地のような施設があり、鉱山のようすを体感できます。
さて、さらに山奥、明治から大正期の採鉱本部があった東平(とうなる)ゾーンへ向かいましょう。
今回はガイド付きバスツアーを公式サイトで予約しました。
自家用車で向かうこともできるのですが、道が非常に狭く、対向車が来ると数十mもバックしないといけなかったりするので、とくに運転に自信のない人はバスツアーを強くおすすめします。
ガイドの方も当時や現在の住友の取り組みなどにも詳しく、雑談を交えて楽しく話していただけます。

バスの道中に見えた斜面、こちらは当時社宅があった場所で、大阪・関西万博の住友館建設のために伐採されたそう。
この場所も、万博でこども向けに開催された〈植林体験〉で使われたヒノキが実際に植林され、数十年、数百年をかけて森に戻っていきます。

そしてたどり着いた東平ゾーンには、〈東洋のマチュピチュ〉とも称される選鉱場と、鉱石を運んだロープウェイの遺跡が残されています。
かつては、その向こうの山まで鉄道が走っていたそう。工場に住む人々のための娯楽場や学校もあり、ひとつのまちが形成されていました。
いまはすべての営みが時を止め、静かな森の風景です。
何百年、何千年かののちは、いまの遺構もすべて消えてしまい、ひとびとの記憶だけに残っているのでしょうか。
あるいは、いつか人類が消えても、森は何も語らないまま、誰かの手で植えられた記憶だけを宿して、生い茂っていることでしょう。