ひとりひとりの「視点」のちがいを考える

ひとりひとりの「視点」のちがいを考える

人は、他の誰でもない、自分だけの視点をもっています。

 

たとえば、こんな話をご存知でしょうか。

 

ふたりが並んで、同じ風景を見ていたとします。

それぞれが同じものを見ているようでいて、実は別のものが見えているのです。

 

それは、ふたりの立つ位置や身長が厳密に同じ場所ではないことから、同じものでも見える角度が違うという物理的な理由であったり。

あるいは、瞳に映る光や色の感じ方も、人によって感度の差があるという視覚的な理由であったり。

さらには、それぞれが過ごしてきた人生における体験、知識の違いから、認識が異なるという理由であったり。

 

この話をどこかで聞いた(あるいは読んだ)とき、なんとも言えず全身が震えるような感動をおぼえました。

逆に言えば、どれだけ体を近づけても、あるいは心が通い合っていても、同じ目で見ることはできないということ。

おそらく、はるか昔から、そんなひとりひとりの視点の違いに気づいた人がいることでしょう。

それをなんとかしたいという想いが、絵画や写真という技術を発達させる原動力になってきたのではないかとさえ思えます。

 

さて、さらに妄想をふくらませてみましょう。

このふたりが、恋人どうしであったとしたら。

そして、やがて結婚し、こどもが産まれたとしたら。

ふたりの視点を受け継ぎつつ、この世に、さらにもうひとつ、新しい視点がうまれることになります。

 

そのこどもが、お父さん・お母さんに、おんぶやだっこをしてもらったとしたらどうでしょう。

物理的な意味では、両親どうしよりも近い視点で、同じ風景を見ることができると言えます。

 

こどもがどうして、肩車や、たかいたかいを嬉しがるのか。

それは一瞬であれ、お父さんやお母さんの身長よりも高い視点から、世界を見ることができるからかもしれません。

親にとっても、自分ひとりだけではみつけられない、そんな新しい視点を得るところに子育ての楽しみがありそうです。

 

わたしにはまだこどもがいないので、まったくの想像で書いています。

けれど自分にも、物心つく前に、そんな視点を手に入れた瞬間があったはず。

それを思うと、両親やその祖先といった無数の先人の視点が、わたしの中に受け継がれていることに感謝しつつ。

そんな視点を、未来に受け継いでいければとも思います。

 

Published by mizuho

文字遣い/探索士 ——夕霧に包まれ消えゆく島の名を知る術も無し凪の私は

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