古くて新しい、まちの魅力に出会う – 愛知・名古屋の近代建築

ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしょうか。

愛知・名古屋では現在、近代建築に関する企画展示・イベントがいくつか行われています。

 

半田赤レンガ建物・創建時のレンガ展

 

まずは名古屋からは少し遠いですが、半田市にある赤レンガ建物。
名鉄河和線の住吉町駅から東に徒歩5分。

IMG_8733

明治時代にカブトビールとよばれる地元のビール製造工場として建てられ、つい最近、常設の展示館として生まれ変わりました。
復刻されたカブトビールを楽しめるカフェなどもあります!

現在は「創建時のレンガ展」として、ノリタケの森などでも使われているレンガの歴史などを学べる特別展が開催中。

 

なごや折り紙建築

次は、文化のみち橦木館(しゅもくかん)で行われている、なごや折り紙建築。

地下鉄桜通線の高岳駅から北に徒歩で10分、あるいは地下鉄名城線の市役所駅から東に徒歩15分程度。

これは関係ないけれど、通りがかりに見つけたビル。パズルゲームみたいな非常階段の壁面がかわいい(笑)


名古屋城や官庁街の東、歴史的な建物の残る一角にある橦木館。

 

「折り紙」とはいっても、千羽鶴的なあれでは無くて、二つ折りにできる紙で、立体的に切り出したもの。

 

テレビ塔、県庁、橋など、なじみのある建築や土木が小さな紙の中に再現されていて、実物とはまた違った見ごたえがあります。

 

まちかどの近代建築写真展

最後は金山総合駅近く、名古屋都市センターで開催されている、まちかどの近代建築写真展in名古屋

 

全国で行われている「まちかどの近代建築写真展」が、このたび名古屋で初開催だそう。

有名な建築から、小さな商店・銭湯など、ともすれば見逃してしまいそうなまちかどの風景が、写真となって一同に介することの感激。

 

加美秀樹さんの講演会も聞きましたが、印象に残ったのは、「古いものでも新しいものでも、とりあえず写真におさめる」という趣旨の発言。

建物は、気づかないあいだに、なくなってしまうから。

 

たとえば、いま(2016年5月)当たり前に名古屋のまちかどで見られるコンビニのサークルKだって、もうしばらくするとなくなってしまう。

講演会の中でも触れられていた、今和次郎先生の「考現学入門」。

 

考現学というのは考古学に対比してつくられた言葉で、現在のことをひたすら収集すること。
それがいずれ、当時のことを知る貴重な史料にもなる。

だから、古い写真を見て懐かしいと思うのと、今あるものを写真におさめることは、表裏一体の行為なのかもと思います。

あるいは、自分がまったく知らない時代、明治とか昭和初期のものを、逆に新鮮な視点で楽しむということもできてしまう。

 

古くて新しい、まちの魅力に出会うゴールデンウィークはいかがでしょう。


こちらもオススメ!

自分だけの物語を見つける – ぼくらが旅に出る理由

 

宇品駅ターミナル

 

あなたは、今までどんなどころに旅行に行きましたか?
忘れられない思い出の場所、何度も訪れたくなる土地がある人も多いと思います。

わたしにも、そんな場所がいくつかあります。

 

そのうちのひとつが、広島。

 

瀬戸内海のしまなみが好きだったり、

食べ物がおいしかったり、

魅力を語ればきりがない。

 

そんな広島ですが、修学旅行で行ったこともなく、大人になるまで訪れたことがありませんでした。

 

広島=修学旅行のイメージといえば、原爆ドーム、平和学習。
でも、それは誰かから与えられた物語。

自分のものではありません。

 

大人になってから訪れてみることで、それだけではない、自分が興味のある分野とつながった、新しい「物語」が見つかることがあります。

たとえば、建築・まちづくりの観点で、広島の平和記念公園を設計した丹下健三という建築家の理念によって、原爆ドーム、慰霊碑、史料館が一直線に並ぶようにデザインされているということを知ったり。

広島駅やその周辺が、再開発で訪れるたびにその姿を変えていったり。

 

平和の大切さはもちろんだけれど、けっして時を止めたままのところばかりではない。

荒廃した街からの復興と、日常を取り戻したあと、さらに変わっていくところと変わらないところの両方を目の当たりにできることに個人的には惹かれます。

 

そこにもきっと、ひとりひとりの物語。

 
どこかに旅に出るというのは、そんな自分だけの物語を見つけるためなのかもしれません。


めぐりくる春と、青春と。

sakura_2016

4月になり、桜も満開の中、新しい生活がスタートした方も多いと思います。

学生の方は、来週から入学式、始業式ですね。

 

ところで、学生といえば青春時代という言葉が思い浮かびますが、なぜ「青い春」なのかご存知でしょうか。
これは、中国の五行説に基づいています。

詳しく紹介されているサイトはたくさんあるので、簡単にいうと、自然界は木・火・土・金・水の五要素から成り立っているとする考え方。

それぞれの要素に、色や方角など、さまざまなものが割り当てられています。

gogyo
そこで、ともに同じ要素に割り当てられている色と季節とを組み合わせると、熟語ができます。

青春朱夏白秋玄冬

でも、「青春」以外はなんだかなじみがないですね。

白秋は「北原白秋」以外に聞いたことがないですし。玄冬はそんな名前の出版社が…ってそれは「幻冬舎」でした。漢字が違います。

ことほどさように、日本人は「春」が好きなのだということかもしれません。
そういう私も好きですけどね。

 

人生の中で春に当たる、青春時代。春機発動期。

 

けれど、季節はめぐり、五行も循環するように、青春が一度だけとは限らないのではないでしょうか。

 

マネジメントにおいてPDCAサイクル(Plan-Do-Check-Action)というものがありますが、これもサイクルをどんどんまわすことで、常に改善を進めるという考え方。

  • Plan – 新しいことをはじめる春。
  • Do – それが定着し、すくすく伸ばす夏。
  • Check – そして収穫、実りの秋。
  • Action – 得たものをもとに、改善する冬。

もちろん、ちょうど季節単位でサイクルがまわるとも限らないのですが、なんとなく、しっくりくる気がしないでしょうか。

 

環境が変わったり、新しい人との出会いがあったりする春。

それが、あなたにとって、何度目かの青春時代の訪れかもしれません。

みなとまちをフォントの視点で楽しむ – アッセンブリッジ・ナゴヤ 2016 プレイベント

私が暮らす愛知県名古屋市では、まちづくり・アートイベントなど、まちとひとが関わる、いろいろな取り組みが行われています。

いろんなイベントを見つけては、いろんな街に行っているのですが、そのときにも「フォントの視点」をもつと、さらに違った楽しみ方ができます。
今回は、名古屋港付近で行われている、Assembridge NAGOYA(アッセンブリッジ・ナゴヤ)をご紹介。

アッセンブリッジ・ナゴヤ 2016│Assembridge NAGOYA 2016
2016年秋の本イベントに向けて、プレイベントが開催されたので行ってきました。

 

地下鉄の築地口駅を下りてすぐの商店街。

minato - 7

今はなき三洋電機のロゴ、かわいい「sailors」の三角屋根など、見どころたくさん。

 

minato - 2

良い丸ゴシック。

minato - 5

良い明朝体。

 

minato - 1

襲名式。

おそらく、もともと丸ゴシックの縦書き看板があって、そのあとで角ゴシックの横書き看板が取りつけられたのだと思われます。

丸ゴシックの看板も残しておいてくれてるのが嬉しい。
そのうち、見られなくなってしまうかもしれませんが…。

 
最後に、今回の総合案内所、港まちポットラックビル。

minato - 3

まちづくり活動の拠点となっているこの建物は、かつては本屋さん・文房具屋さんだったようです。

忘れ形見のように、その記憶が刻まれていました。

minato - 4

 

写真を撮るのを忘れましたが、ボタン店を改装したギャラリーでは、ZINE(ミニコミ誌)の展示もあり、フォントを題材にした作品もありました。

 

まちの移り変わりをずっと見つめてきた、街中のフォント達でした。

「ルビンの壺」から考える、新しい視点で世の中を見るために大切な三つのこと

今回はフォントの話はちょっとお休みして、このサイトでお伝えしていきたい「新しい視点で世の中を見る」ということを考えたいと思います。

 

みなさんは「ルビンの壺」というのをご存知でしょうか?


Rubin2
By John smithson 2007 at English Wikipedia – Transferred from en.wikipedia to Commons by PHansen., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=13901986


上のような、黒地と白地の図形で、白を図としてみれば壺にも見えるし、黒を図としてみれば向かい合った二人の顔にも見える、というもの。

子供の頃、国語の教科書に載っていたのを憶えています。
もともとエッシャーとか「ペンローズの三角形」のようなだまし絵が大好きで、それと同じような感覚で、単純に面白いと思って印象に残ったのかもしれません。

しかし、あらためて考えてみると、この「ルビンの壺」、視点というものを考える上でとても大事なことを教えてくれるような気がします。

以下、もう当時の教科書は持っていないので、もし同じようなことを書いていたとしても深層意識のなせる業としてご容赦ください(笑)

 

1. はじめて見た時に「壺」だと思う人と、「顔」だと思う人に分かれる

当時、私がこの図形を「壺」だと思ったのか、「顔」だと思ったのか。

それはもう憶えていませんが、たぶん授業の流れで、どちらだと思う? と手を挙げさせられたのだと思います。

私が先生だったらそうしますもの。

そしてこれもきっと、全員の手がどちらかに挙がるわけではなく、偏りはあるにせよ、どちらにも票が入ったに違いないのでは、と思います。

 

もっとわかりやすいのが、こちらの絵でしょうか。


My Wife and My Mother-In-Law (Hill).svg
By William Ely Hill (1887–1962) – „Puck“, 6. Nov 1915, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3836554


こちらの絵、若い女性と老婆、どちらにも見えるというものですが、もう自分は最初、どう見ても若い女性にしか見えず、老婆に見えるという意見が理解できなかったことを憶えています。

 

まったく同じものを見ているのに、です。

 

まったく同じものを見ているのに、人によって見え方が違う。

それを理解できないと思うか、それもひとつの視点だと思うか、それだけで、世界の広がりがまったく変わってきます。

 

2. 「壺」と「顔」を同時に見ることはできない。

さて、人によって見え方が違うことが理解できたとして。

その相手に、どうしたらそう見えるのか? を教われば、だんだん、自分でもその見方をすることができるようになります。

ただし、ここでも注意が。
それは、たとえこの図を「壺」としても「顔」としても見られるようになったとして、同時に「壺」と「顔」を見ることはできない、ということ。
「壺」だと思って見ている瞬間は、顔の部分は地として消えてしまって、「顔」だと思って見ている瞬間は、壺の部分は消えてしまう。

どうやら、人間とはそういうものらしいです。

 

つまり、意識して見方を切り替えようとしなければ、どちらか一方の視点で固定されてしまう、ということ。

最初に持っていた視点も、かけがえのない、あなただけの視点かもしれません。

どちらか一方の視点だけでいい、というものではありません。

 

3. といいつつ、「ルビンの壺」と言っている時点で、「壺」であると印象操作されている。

最後に、実はいちばん大切かもしれないこと。

 

はじめに「ルビンの壺」という表現をしてしまっているので、もしこの図形のことを何も知らない人が見ても、大半は「あっ、これ壺なんだ」と思ってしまうのではないでしょうか。

何も言われずに見たら、「壺」だと思う人と「顔」だと思う人が半々かもしれないのに。

 

新しい視点を提供するために今までにない表現をする、というのは、もちろんとても効果的。

 

けれど、自分に都合のいいように、自分と同じ視点を読み手に強要するように、表現や記事のタイトルを言い換えてしまっている例は、残念なことに世の中にたくさんあります。

悪意だけでなく、善意からであったり、ほとんど無意識にそうしてしまうこともあるので、伝え手としても気をつけたいところ。

 

そして、受け手としても、それに惑わされないようにするためにも、いくつもの視点を切り替えられるようになっておくことが大事。

 

 

今回は、「ルビンの壺」…もとい、「ルビンの何かに見えるもの」をテーマに、「視点」ということを考えてみました。