捨てられない人のための取捨選択と集中

一ヶ月ぶりの更新となりました。

ブログの更新頻度が落ちたのは、わたしの環境の変化も関係しているかもしれません。

 

ここのところ、ありがたいことに、いろいろな縁で、いろいろなことに関わらせてもらっています。

新しいことをはじめるには、その分、いままでやってきた何かを犠牲にしなければいけない部分も出てきます。

また、せっかく何かに誘われても、どうしても余裕がなくて辞退してしまうこともあります。

もう少し自分に時間と体力があったら、もっといろいろなことができるのに…と思いながら、取捨選択をしていかなければなりません。

 

取捨選択、これがとても悩ましい。

 

「取」は「拾」と読み替えることもできます。

拾と捨、よく似た漢字で意味は正反対ですが、【拾】は「一つ拾う」、【捨】は「土に捨てる」という覚えかたをしました。

その印象からか、「拾」は一度に一つだけしか選ぶことができないという思いがあります。

あれもこれもと思っても、あれかこれか、どちらかしか選べない。

 

対するに、「捨」は一気に捨ててしまうことができます。

「土」は「十一」に分解できて、両手にあまるものを一度に手放してしまうイメージがあります。

子供のころ、お気に入りだったおもちゃや本を捨てられて、あるいはなくしてしまって、ショックを受けた思い出は、いまでも忘れられません。

その記憶もあって、捨てること、捨てられることに対する恐怖感があるのかもしれません。

 

捨てることに抵抗を感じるのであれば、視点を変えてみましょう。

土に捨てるのではなく、土に埋めると考えたら、どうでしょうか。

埋めたものは、目の前からは見えなくなって、選んだものに集中することができます。

けれど、それはけっして捨てたわけではなく、豊かな土壌をはぐくむ肥やしとなるのです。

あるいはそれが種となって、やがて芽を出し、花を咲かせるかもしれません。

そう、この世の中のすべては伏線でつながっていて、無駄なことなど何ひとつとしてないのですから。

 

いまはちょっとだけ手放したとしても、思いがけない形で手元に帰ってくるかもしれない。

そう考えれば、選択することがすこしだけ楽になります。

 

文字の歴史と美しさにふれる – 書と文字は面白い

わたしたちがふだん目にする本、街中のポスター、Webサイトには、さまざまなフォントがあふれています。

そして、それぞれのフォントには必ず、それをデザインした人=書体設計士の存在がいます。

そんな書体設計士の一人・鳥海修さんの著書「文字を作る仕事」に、書家・石川九楊さんのお名前が登場します。

MacやiPhoneに搭載されたヒラギノ明朝を作った際にも修整指示を担当されたそうで、鳥海さんと同じく京都精華大学の教授を務められ、書家としての活動の他に書や文字に関する研究を行っています。

現代日本で使われる文字のルーツは、中国古代にまでさかのぼります。

亀甲や骨に刻まれた甲骨文字や、殷周時代の金属器に鋳込まれた金文から、漢字の歴史がはじまったのです。

いかにも象形文字らしいかわいさを残す文字のデザインから、日本と中国でそれぞれ発展していった書の歴史、はては自動車のナンバープレート、漫画の描き文字にいたるまで、さまざまな視点で文字をとらえ直していきます。

たとえば、フォントの分類のひとつに、かつて大銀行や官公庁の看板に多く使われていた隷書体というものがあります。

いまでも、新聞の題字(タイトル)や紙幣に使われ、なんとなく威厳がありそう、という雰囲気をかもし出すフォントです。

歴史的には、実印に使われる篆書体が生まれたのち、漢の時代に完成し、毛筆の特性である筆触の存在感が強くあらわされています。

一般的に毛筆と認識される楷書体・行書体・草書体の先祖としての威光が、今にいたるまで隷書体のイメージにつながっているのかもしれません。

 

この本の中で、石川さんは「書は言葉=文字に同伴する美術である」として、書がもつ、ほかの美術との差異を明らかにします。

絵画であったり、ピアノであったり、ほかの芸術であれば、まったくの初心者の状態から一歩一歩階段をのぼっていく必要があります。

ところが、現代日本で生きている人であれば、鉛筆やペンであろうと、長年文字を書く機会があり、書についてまったくの初心者ではない、といいます。

本書は平成5年に出版されたもので、それから四半世紀の時が経ち、紙などに直接文字を書く機会が減っている人が多いこともたしかでしょう。

それでも、街中で、わたしたちは多くの文字に触れ、多くの文字を指先から打ち出し続けています。

それがフォントの形であっても、それが生まれるまでの歴史、きざまれた文化を知ることは、けっして無駄なことではありません。

それによって、より深く、文字を味わうことができるのです。

 

 

NHK 美の壺 – 心を伝えるフォント

暮らしの中に隠れたさまざまな美を紹介するNHKの番組「美の壺」で、フォントが特集されていました。

美の壺 – NHK

おかげさまで番組は13年目! 壺のいい感じ、究めます。

「想いを伝える」コミュニケーション手段としてのフォントの奥深さ、幅広さが文字通り伝わってくる内容でした。

フォントで想いを伝えるブックデザイナやグラフィックデザイナー、そしてフォント自体を作るフォントデザイナーなど、さまざまなかたちでフォントに関わる人々が登場します。

そして、それらの源流をたどっていくと、中国の明の時代から伝わり、日本では明治時代に活版印刷として普及した明朝体に行き着きます。

いっけん同じように見える明朝体でも、人によって伝えたい想いが異なり、それを表現するために、いまも新たなフォントが生み出され続けています。

 

たとえば、フォントワークス・ 藤田重信さんの筑紫シリーズ

筑紫書体シリーズ|フォントコラム|FONTWORKS | フォントワークス

フォントコラム|

たとえば、鈴木功さんの金シャチフォントに代表される都市フォントシリーズ。

こちらは名古屋城の金シャチを明朝体のデザインに取り入れています。

Type Project | 都市フォントプロジェクト 名古屋

街から生まれた文字が街で使われ、育まれ、いつか街の風景になる。それがタイププロジェクトが提唱する「都市フォント」プロジェクトのビジョンです。名古屋をイメージした「金シャチフォント」や、横浜の港をイメージした「濱明朝体」など、タイププロジェクトが取り組んでいるプロジェクトを紹介しています。

文字に、文字以上の想いをつめこもうとすること。

そのこだわりはある意味欲張りで、だからこそ切実で、崇高なものかもしれません。

 

番組内のドラマパート(?)では、草刈正雄さんが町内会イベントのチラシを作るためのフォントを選ぶというシチュエーションを演じていました。

フォントが多すぎて選べないときは考えるより感じる、それも一つの手です。

フォントの歴史や背景を知ることも大切ですが、それがすべてではありません。

自分なりの視点、感覚で、伝えたい想いをフォントに託してみましょう。

 

 

自分視点の旅のすすめ – できるだけがんばらないひとりたび

旅行が好きです。

それも、もっぱら、ひとり旅。

何ヶ月も前から行きたいところを決めて、綿密に計画を立ててする旅行が大好き。

思い立って、ふらっとなじみの土地に行って、まだ行ったことのない場所を探索するのも大好き。

そう言うと、行動的とか、アクティブなどと思われることもあるのですが、わたしの中では、そこまで特別なことをしているという感覚はありませんでした。

このブログ「凪の渡し場」では「日常に新たな視点を」というコンセプトで、さまざまなまちあるきの記事を書いてきましたが、「旅に出ること」そのものが、わたしにとっては日常の延長線上にあるのかもしれません。

自分だけの物語を見つける – ぼくらが旅に出る理由

一歩を踏み出す勇気が出ないなら、半歩踏み出してみる

 

そんな、ひとり旅に対する新しい視点を提供してくれるのが、こちらの本。

同名のブログ「できるだけがんばらないひとりたび」をもとに、あまり旅に慣れていない人、心配性な人に向けてのコツや心得をまとめた本です。

わたしも心配性なことにかけては人後に落ちない自信があるので、そういった面でも実用的な学びにあふれています。

たとえば、わたしはよく、荷物が多い、カバンが大きいと言われることがあります。

「旅慣れた人は荷物が少ない」という定説にあこがれたこともありますが、やはり旅となると心配になり、あれもこれもと詰め込んでしまうもの。

けれど、心配な人はそれで良いのです。

現地で服を洗濯したり調達するのに不安があるなら、日数分持っていけば良い。

お土産だったり、本をたくさん買ってしまうのなら、その余裕をもったカバンを選べば良い。

ただし、大きいカバンを持ち運ぶのは体力を消耗するので、さっさとホテルやコインロッカーに預けるに限ります。それに向いたカバン選びこそが大事。そんな結論になります。

シンプルで大容量な旅行用リュックなら「2wayダッフルバッグ」と検索すると捗ります – できるだけがんばらないひとりたび

THE NORTH FACE の「Glam Duffel」が便利で、シンプルな旅行用リュックを探していた私は「そうそう、これでいいんだよ!」と思ったのですが、「2wayダッフルバッグ」で検索してみると同じようなのが出てきて、どれも便利そうでした。 「なんでこれを選んだの?」という話と、他にもよさそうなやつをまとめておきます。 ノースフェイスで見つけた、バカみたいに軽くて容量の大きい …

 

さて、とはいえ、本書に書かれているのは実用的な情報ばかりではありません。

むしろ、具体的な情報ならブログのほうが詳しいでしょう。

それでもわたしが本を読んで感銘したのは、旅に対しての「視点」が鮮明に打ち出されていることにあります。

実は著者の田村さんは、日本や世界のエスカレーターをめぐることを趣味としており、「東京エスカレーター」というサイトを主宰されています。

かっこいい・珍しい・おもしろい世界のエスカレーターまとめ | 東京エスカレーター

「東京エスカレーター」は、たぶん日本で唯一くらいのエスカレーター専門サイトです。首都東京から、世界の素敵なエスカレーター情報をお届けします。管理人は田村美葉(たむらみは)です。

 

本の後半は田村さんの旅の記録が収録されているのですが、ロンドン旅で突然エスカレーター写真が出てきたりと、本の表紙からはちょっと想像つかない、素敵にマニアックな世界が展開されています。

見開き特集されている「スパイラルエスカレーター」は螺旋階段のような外観が特徴的ですが、田村さん自身も認める通り、これを目的に旅をするのは自分だけではないかという「自分視点」のひとり旅。

それでいいし、それがいいのです。

 

旅で大切なことは、自分の視点で世界を見るということ。

それは一般的な名所やモデルコースを否定するものではなく、むしろそうした「多くの人が共感する視点」を取り込みながら、何故か自分だけが惹かれてしまう視点を少しずつ養っていく、それがひとり旅の大きな楽しみです。

ひとり旅なら、エスカレーターの写真を黙々と撮っていても同行者から不審に思われることもないでしょう。

ひとり旅なら、誰にも構わずパイロンを撮り続けることができるのです(パイロンも、125ページに何の解説もなく言及されていて、感慨深いものがあります)。

 

そんな自由さ、自分視点で、旅を楽しんでみること。

そうしてあるいは、そんな楽しみを発信することで、その視点が誰かの共感を呼ぶとしたら。

それもまた素敵なことでしょう。

 

時間がない生き方への処方箋 – 余白を大切にする

仕事で、私生活で、多くの人が時間に追われて暮らしています。

やらなければならない仕事は山のようにあって。

やりたいことも、読みたい本も、会いたい人もかぎりなくて。

忙殺されるように、矢のように過ぎる時間をやりくりして生きていく毎日。

 

それでいいの? と、わたし自身もそんな疑問があったから、タイトルに惹かれて、この本を手にとったのでしょう。

この本では、時間に追われる人に、借金や貧困に苦しむ人々と共通した心理があるとして、その要因を分析していきます。

そうした時間的・金銭的欠乏に対処する方法のひとつとして、スラックとよばれる余裕、ゆとりを持つことがあげられています。

 

例として、年中手術室の不足に悩まされ、急患が出るたびに予約の組み直しが発生してスタッフの負荷になっていた病院のケースが紹介されています。

この問題は、スラックの考え方で見事に解決されます。

それは、予定外の手術のために、ひとつだけ手術室を空けておくことでした。

「予定外の手術がどれだけ入るかなんて想定できないのだから、そんなことはムダだ」そう思ったスタッフも多かったのだそう。

けれど、想定外のことは、何がいつ起こるかわからなくても、いつかは起こるし、いつでも起こるものなのです。

想定外を想定する、そんな余裕をもつことで、もともとあった予定への影響をできるだけ抑えることができます。

 

わたしたちの暮らしにも、この考え方は応用できるのではないでしょうか。

 

毎日の仕事、旅行の予定。

予定を決めること、綿密に計画することは大切なことで、それを守ろうとする、いわゆるタスク管理も同じくらい重要な概念です。

けれど、あまりにきっちりと予定を詰めてしまったら、ひとつのことが遅れたり、いざ想定外のことが起こったときに、はたして対処しきれるでしょうか。

計画を立てたら、思い切って、ひとつだけでも予定を削れないか、もしくは、時間を延ばせないか、そう考えるだけの余裕をもっておきたいものです。

 

余裕はまた、余白と言い換えても良いかもしれません。

何も予定がないのが空白の本だとしたら、予定があってもゆとりがあるのが余白の多い本。

ページ全体にぎっしりと活字が詰まった本が読みにくいように、余白は「文字が書かれていないこと」それ自体に意味があります。

読みやすいだけでなく、余白があればこそ付箋を貼ることもできるし、何か書き込みをする自由も生まれるかもしれません。

 

かの数学者フェルマーが証明を書き込もうとした本に、もう少し広い余白があったなら。

数学の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

その本の著者も、まさか自分の著書がそんな使い方をされるとは想定外だったかもしれませんね。

 

余白を、もっと大切にして、生きてみましょう。