旅のはじまり – 開幕! あいちトリエンナーレ2016

愛知県を舞台にしたアートの祭典・あいちトリエンナーレ。新しい祝日・山の日でもある今日・8月11日から、いよいよ開幕です。
あいちトリエンナーレ2016

今年のテーマは「虹のキャラバンサライ」。瀬戸内国際芸術祭とは違った都市型の芸術祭として、街の新たな魅力を旅人のような気持ちで発見できる、さまざまな工夫が凝らされています。

 

開催場所は名古屋市・豊橋市・岡崎市。
名古屋市はその中でも、長者町・栄のまちなかと、名古屋市美術館、愛知県美術館(芸術文化センター)という施設内の展示とに分かれています。

期間中一日のみ観覧できる普通チケットでも、これらの会場ごとに日を変えて入場できるので、無理に一日で全部まわろうとせず、小分けにして長い旅を楽しむのも良いと思います。

ということで、このブログでも、何回かに分けてトリエンナーレとその周辺の様子をお伝えしていきます。(作品のあとの記号は公式ガイドブックに準拠しています)

 

やはり、旅のはじまりは愛知芸術文化センター(芸文)から。
この暑い時期はとくに、地上を避けて地下から行くのがオススメです。

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地下鉄東山線・名城線の栄駅、あるいは名鉄瀬戸線の栄町駅からオアシス21方面へ。そのまま直進して、地下2F連絡通路から芸文に入ると、森北伸さんの作品(N-02)がお出迎え。

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前回のインパクトのあるヤノベケンジ作品とはまた違い、見る視点を変えて、いろいろな楽しみ方ができて好きです。

その奥にあるアートショップ・ナディッフ愛知もおすすめ。トリエンナーレや港千尋監督関連の本だけでなく、文字や路上観察といったテーマの本も豊富で楽しめます。

 

エレベータで10Fに上がると、ポスターやガイドブックの表紙のモチーフになった、ジェリー・グレッツィンガーの都市の地図が(N-03)。

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床の上に乗って記念撮影を楽しめるスポットになっています。反対側には公式グッズ売り場も。このスペースまではチケットなしでも入場できるようなので、ぜひ足を運んでみてください!

 

さて、中に入っての見どころは、大巻伸嗣さんの作品(N-13)。

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白い部屋をキャンバスに描かれた色彩豊かな花々。部屋を出たあとの制作過程のビデオも、思わず見入ってしまいます。

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それから、わたしがとくに気に入ったのは、三田村光土里さんの作品(N-11)。

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日常の記憶と記録がテーマということで、かわいい小物がたくさん詰め込まれた部屋。

 

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こちらは松原慈さんの作品(N-16)。盲学校のこどもたちとのワークショップで作られた造形と、それを表す「ことば」が印象的です。

 

ほかにも、8Fや屋上にも展示がありますが、今回はここまで。また後日、ゆっくりまわります。

 

おまけ。今回、隠れた公式グッズでは? と思うのが、あいちトリエンナーレ2016特製しるこサンド

しるこサンドとは、愛知が世界に誇る松永製菓のビスケット菓子。
松永製菓株式会社
あずきを練り込んだ味が癖になるおいしさ。スーパーで棚に並んでいたら、ついつい手を伸ばしてしまいます。

今回は、ダニ・リマのオープニング公演(N-103)を見た人に、ポスターとの二択で配られていました。
また、名古屋市交通局とのコラボで、スタンプラリーの先着景品にもなっています。

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もしかして今後、他にももらえるチャンスがあるかも…?

ところで、トリエンナーレのパッケージだと、しるこサンドスティックが入っているのではと思うのはわたしだけでしょうか?(笑)


誤解されるフォント – 創英角ポップ体

これまで、このブログではさまざまな日本語フォントについて取り上げてきました。

多くのところで使われているフォントといえば、創英角ポップ体の話題を避けては通れません。

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マイクロソフト Office に標準で搭載されているフォントということで、Windowsユーザであれば誰もが一度は目にしたことがある、そして何の気なしに使ってしまったことがあるフォントだと思います。

 

しかし、フォントというのは、話し方やファッションのように、それぞれに目的があって使い分けるためのもの。

その場その場で、もっともふさわしいフォントは何か? を考えるのが本来のありかたです。

 

創英角ポップ体の場合、なんとなくパソコンに入っているから、太字で目立たせたいから、といった理由で使われてしまっている、というのが正直な印象。

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では、創英角ポップ体の本来の目的とは何なのか?

 

実は、それはしっかりとフォントの名前に示されています。

ポップ体のPOPとは「Point of Purchase」、つまり商品の購買意欲をそそるための広告の意味。
あの「HG創英角ポップ体」の元となった直筆生原稿を見た – デイリーポータルZ

レジの売り上げを管理するシステムをポス(Point of Sales)と言うのと同じ。

わたしのまわりで最近よく聞くところで言うと、コーチングツール・Points of You をPOYと略すのと同じです(笑)

 

それはともかく、広告だからこそ、わざと個性的な、目を惹くデザインがされているフォント。

なので、たとえばこんなのは、正しい創英角ポップ体の使い方ということになります。

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東京で見かけた、イオン系のスーパーマーケット・まいばすけっと。この看板がなければ、外壁や電灯からはスーパーとは気づけなさそう。

 

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こちらは…どうでしょう? なんとなく親しみは感じる気がします。それで購買意欲をおぼえる人がいるかもしれませんものね!

 

しかし残念ながら、商品とは関係のない場所で使われて浮いてしまっていることが多い創英角ポップ体。

その点で、もっとも誤解されている日本語フォントであると思います。

 

もちろん、フォント自体が悪いわけではありません。

そうと知らずに、うっかり本来の目的から外れた使い方をしてしまった人が悪いわけでもありません。

 

それはたとえば、セイヨウタンポポなどの外来種が在来種を駆逐して広がってしまったように。

いまさら誰が悪いと言ってみても仕方のないことではないかと思うのです。

 

ただ、強いて言えば、ポップ体というその名前が、そもそもの誤解のはじまり。

いまや「Point of Purchase」ではなく「Popular」のほうが通りが良いほど一般に人気のあるフォントになってしまったことが、歴史の皮肉と言えるかもしれません。

 

まさに文字通り、名は体を表す。

 

時をかける「ことば」の力 – 筒井康隆・柳瀬尚紀の突然変異幻語対談

先日亡くなられた翻訳家の柳瀬尚紀さん。

翻訳本はほとんど読んだことはないのですが、一冊だけ家の本棚にあったのが、筒井康隆さんとの対談本。

以下の文章は、筒井康隆ファンとしての視点から書かれたものであることをご承知おきください。

笑犬楼大通り 偽文士日碌

 

文章のプロどうしだけあって、冒頭から「言語」に対するお互いの鋭い感覚のぶつかりあいが繰りひろげられます。

最初の対談が行われたのは昭和62年(1987年)。柳瀬さんは「フィネガンズ・ウェイク」を翻訳中、筒井さんは「文学部唯野教授」を執筆中という時代です。

フィネガンズ・ウェイク」の原本は1939年、百年後には解読される「未来言語」として書かれたといわれます。

その自由奔放な言語表現を、さまざまな工夫を凝らして日本語に翻訳していく柳瀬さん。

 

さらに、この対談を通して、筒井さんは「五十音の文字が一字ずつ消えていく」という小説の着想を得ます。

それこそが、かの有名な「残像に口紅を」。

 

世界から「あ」という文字が消えれば、「愛」も、「あなた」という言葉も使えなくなる。それどころか長音の「カード」なども使えなくなり、他の言い回しを使って文章をつむぐことになります。

一章ごとに文字が減っていく中、一読しただけでは消えた文字に気づかないほど自然に進む物語。それでも次第に世界は歪んでいき、坂道を転がり落ちるようにラストへと向かっていきます。

筒井さんのたぐいまれな文章力、言語力を味わうことができる一冊。

 

ちなみに、筒井さんが自身の小説作法について解説した本としては「創作の極意と掟」があります。

小説を書きたい、あるいは文章を書くことに興味があるという人であれば、読んでおいて損はありません。

 

すぐれた文章には、何十年、何百年たっても、人をひきつける魅力があります。

それが、ことばのもつ力。

 

もちろん、万人に受け入れられる文章ばかりではありません。

それでも、その文章を必要としている人はきっといる。

いつかその人に届くように、そんな願いをこめて、ことばはつむがれ続けていきます。

 

原平という人がいた! – 赤瀬川原平の全宇宙

誰もが人生のなかで、いろいろな人に逢い、いろいろな本を読み、その影響を受けていきます。

けれど考えてみれば、その出逢った人も、本を書いた人も、また別の誰かから影響を受けて人生を生きています。

 

ふとした瞬間に、その源流、言ってみれば元ネタを知ることがあります。

わたしにとって、赤瀬川原平という作家はそんな源流…あるいは「原流」ともよべる存在です。

 

赤瀬川原平さんは1937年生まれ、2014年没。芸術家として活動したり、尾辻克彦という名前で書いた小説が芥川賞を受賞したりと、きわめて広範な活動をしていました。

そんなわけで、赤瀬川さんの名前を意識することはなくても、その影響を受けた人や活動がたくさんあります。

 

たとえば、街中のちょっと変わったもの、おかしな看板に目を留めること。

こどものころ、宝島社の「VOW」という本を読んで、そんなモノの見方があることを知り衝撃を受けました。

その源流は紛れもなく、赤瀬川原平さんの「トマソン観測センター」、そして路上観察学。

トマソンというのは、当時の読売巨人軍の助っ人外国人、トマソンから。

4番打者なのにまったく活躍しないというところから、街中の無用物をトマソンと名づけました。

当人には傍迷惑な話でしょうが、普通の人が見過ごしてしまうようなものに着目する感性、それを多くの人が興味を引くように「見立て」で語る手法は卓越しています。

一人で「ない仕事」を作る、みうらじゅんさんにも通じるところがあります。(実際、みうらさんも赤瀬川さんの本の解説を書いています)

その視点は、辞書にも向けられます。

新明解国語辞典」の例文がおもしろいことに気づいて書かれた「新解さんの謎」。

「舟を編む」などの辞書ブームの背景にもなっているのではないでしょうか。

 

変わったところでは、昔流行した3Dステレオグラム

なんと、これも赤瀬川さんが早くから目をつけていたのだそう。

二次元の写真が三次元になるという視点の転換。いま流行のARやVRも、そういう視点で考え直すと新しい発見がありそうです。

 

ちなみに、わたしが赤瀬川原平という名前を意識したのは、実はアニメ化物語

 

主人公の阿良々木暦が八九寺真宵におこづかいをあげるシーンで、千円札に「赤瀬川」と書かれています。

何のこと? と思って調べたら、アート作品の中で千円札をコピーして、裁判にまでなってしまった事件が元ネタの様子。

もちろん、西尾維新原作には一行たりともそんな記述はありません。

アニメ<物語>シリーズの演出自体、赤瀬川さんや、あるいはさらにその源流となる明治期の雑誌編集者、宮武外骨の影響がありそうです。

 

これからも、新しく興味をもったことが、実は意外な先人によって切り拓かれた道だったということがあるかもしれません。

 

それは、はるか昔、見知らぬ誰かから、しっかりとバトンを渡されたということ。

そして、わたしも、未来の誰かにバトンを渡せるようになれば嬉しく思います。

もし自分の人生経験を地図に表したら

生まれてきてからいままで、重ねてきた時間。

それを、都道府県別などで、過ごした時間の長さに応じて地図に色分けしてみたらどうなるでしょう。
ふと、そんなことを考えました。

 

生まれ育った場所。

大学時代を過ごした場所。

社会人になり、いまも暮らしている場所。

この三つが、もっとも濃い色で表されるだろうことはすぐに想像がつきます。

それから、住んだことはないけれど、よく遊びに行く場所。

個人的には、偏愛する広島と、仕事でも行く機会の多い東京では、累積するとどちらが長いのか? が気になるところです。

 

実際に、手動で地図をつくることのできる「経県値」「経県マップというサイトがあります。

あるいは、iPhoneの写真アプリでは、写真を撮影場所ごとに地図上に表示することができますし、同じことが日記でできる Day One というようなアプリもあります。

もちろん、これだとスマートフォンを持っていなかったころの経験はカウントされないので、ちょっと寂しいですね。

この先、技術が進歩すれば、生まれた瞬間から位置情報を記録して、こんな地図が誰でも自動的に作れてしまうかもしれません。

 

こうやって地図を眺めていると、自分の人生経験を表しているようでおもしろいです。

 

ただ、これはあくまで「経験」を単純に数値にしたもの。
数えるほどしか行っていなくても思い出のある場所、あるいは、一度も行っていなくても思い入れのある場所だってあるかもしれません。

それは、経験を超えた、かけがえのない体験。

 

そして、まだ行ったことのない空白の場所を「行ってみたい」と眺めている、その瞬間も。

この先の未来に、未知の体験につながっていると言えます。

 

人生というのは、長い長い、時間と空間の旅。
いままでの、どこで過ごした瞬間も、きっとこれからのどこかにつながっていることでしょう。