この世に生きる人のための怪談話 – お化けの愛し方

日本の夏といえば怪談、お化け、幽霊。

怪談といえば怖い話、というイメージの人もいるかもしれません。

個人的には、それだけでなく、ちょっと切なかったり、お化けに対してもいとおしさを感じてしまう話が好きです。

なぜ人はそうした話に惹かれてしまうのか。それを解き明かそうとするのが、荒俣宏さんのこちらの著書です。

それにしても、タイトルに使われている筑紫Cオールド明朝のなまめかしさが素晴らしい。

その明朝体が、中国大陸の明の時代に使われていた文字をもとにしているように、日本で語り継がれてきた怪談も、明朝末期の小説がもとになっているといいます。

その代表と言える「牡丹灯籠」は、この世のものではない女性を見初めた男性の悲運を描いたもの。

この物語は、形を変え、江戸時代の「雨月物語」、そして明治の三遊亭圓朝による落語などに発展していきます。

 

中国でも日本でも、そして遠くヨーロッパでも、死者との結ばれない恋を描く物語は数知れずあります。

戦争であったり、社会情勢であったり、さまざまな理由から、現世で報われない、辛い思いをしている人はどうしても存在してしまう。

そうした人のままならない思いを、すこしでも救おうとするために、物語は生まれる。

それは怪談であったり、ファンタジー、ミステリーとよばれるものであったり。

現実にはありえない物語だからこそ、人はそこに救いを見出すのかもしれません。

それは人の弱い部分であっても、けっして現実逃避ではないとわたしは思うのです。

 

本と珈琲の、幸せな邂逅 – 梟書茶房

本が好きです。本屋さんという空間が好きです。

たくさんの本が居並ぶ大型書店も心躍るし、思いがけない本と出会わせてくれる小さな本屋さんも素敵。

そして、またひとつ、本との新しい出会いかたを提案する場ができました。

それは、池袋の梟書茶房(フクロウショサボウ)

梟書茶房 [FUKUROSHOSABO]

選りすぐりの本と珈琲で「新しい出合い」を提供する「梟書茶房(フクロウショサボウ)」

場所はJR・東京メトロ池袋駅から直結の、エソラ池袋。

フクロウといえば丸善…? と一瞬思いましたが、おそらく関係なく、池袋だから、でしょうね。

ちなみにジュンク堂池袋本店も近くにありますが、文具専門の丸善池袋店も2017/8/10(木) にオープンするそうです。このときは開店直前で残念!

EsolaとEchikaで案内板のデザインを揃えているのが素敵です。

梟書茶房はエスカレーターかエレベーターで4Fへ。こちらも「書房」と「茶房」を合体させたようなロゴに心そそられます。

 

中に入ると、壁一面に中身の見えないブックカバーで包まれた本の数々。

神楽坂のかもめブックスさんがセレクトしたシークレットブックだそうで、表紙の紹介文を手がかりに、新しい本との出会いがみちびかれます。

何百冊という本の一冊一冊に、実に丁寧な紹介文が書かれていて、よく読めば、有名どころの本であれば「あ、あの本だな」とわかるものもあるので、選び手の言葉に信頼がもてます。

本のタイトルがわからないまま買うのにも不安をおぼえたのですが、この文章であれば裏切られることはないだろうと、こちらの本を購入。フクロウが隠れているカバーが気になったというのもあります(笑)

書名は明かせませんが、あとでカバーを開けてみると、気になりつつも未読の本だったので、ひとしきり感激してしまいました。

さて、こちらで本を購入すると、奥のカフェで梟ブレンド100円引きに使えるしおりがもらえます。

この「茶房」もまた、本と一体化した空間づくりがされています。

 

窓際、本棚に挟まれながら本に没頭できる空間。

開放的なテラスで、本とともに語り合える空間。

学校の図書館を思わせる、本と向き合える空間。

 

今回は図書館のブースを選んでみました。

このテーブルの下にも本が隠れていて、自由に読むことができます。

レシートのかわりに鍵が渡されるという粋な趣向も。

もちろん、コーヒーも食事もおいしく、至福のひとときを過ごせました。

本をモチーフにしたメニューもあるそうで、また次の機会は別のブースでも楽しみたいですね。

 

 

ひとりでも、誰かといっしょでも。

新しい何かとの出会いに、ぜひ足をお運んでみてください。

 

世界に一つの、誰かの字 – 美しい日本のくせ字

パソコンやスマートフォンの普及で、手書きで文字を書く機会が減っています。

わたしも社会人になって、ほとんど文字を手で書かなくなる時期がありました。

たまに書いた文字を人に見られるのも、字が下手だ、読めないと言われる反応が怖くて恥ずかしくなり、ますます文字を書くことにためらいをおぼえるようになりました。

なんだかあまり好きになれなくて恥ずかしい…と思って、

そんな想いを、まったく違う視点から覆してくれるのが「手書き文字収集家」井原奈津子さんの、こちらの本です。

冒頭から、ほとんど読めないダウンタウンの松本人志さんの文字。それでも、この自由闊達さは、たしかに松本人志さんを感じます。

あるいは、文字だけで怖さを感じる稲川淳二さんの文字。

そういった有名人の文字だけでなく、サンリオの絵本や「いちご新聞」に書かれていた文字、少女漫画雑誌「りぼん」連載作品の文字など、どこかなつかしい、かわいい丸文字も。

 

日本人であれば誰でも…どころか、日本人でなくても、日本語を知らない人でさえ、その人だけの「くせ字」があります。

そこには、生まれ育った場所や、時代を背景にしつつ、その人なりに、文字で相手にどういうことを伝えたいのか? という想いが乗せられています。

もちろん、他人に見せるつもりのないメモ書きや日記といったものもありますが、それだって「未来の自分」に宛てたものと考えられるでしょう。

他人が見ることを意識した文章と、そうでない文章が異なるように、「文字」の書き方自体にも、その人の考え方、人との接し方がにじみ出てくるように思います。

 

本書には、駅構内の案内文字をガムテープで表現し、一部で「修悦体」として話題になった佐藤修悦さんの手書き文字も紹介されています。

佐藤さんも自分用のメモ書きは修悦体とはまったく異なるものの、若いころに「ゴシック体」に魅せられ、人に見せる文字はすべて自身の解釈でいう「ゴシック体」で書き続けてきたのだといいます。

 

そうやって、誰かが作った文字が長く、多くの人に愛されていくことで、文字はやがて一人の手から離れ、フォントという形に昇華します。

たとえば、映画字幕の文字。

戦前から職人の手で書き続けられてきた、この独特の字形は、さまざまなフォントとして再現されています。

ニューシネマA D|書体見本|FONTWORKS | フォントワークス

フォントワークスは筑紫書体やロダンなど日本語書体・フォントの販売、OEM書体・フォントの開発、LETSを提供しています。

シネマレター | 書体見本 | モリサワのフォント

「シネマレター」は、およそ30年にわたり、映画字幕文字を書き続けている職人の文字をもとに作成されました。映画の字幕は、書いた文字から版を起こし、フィルムに直接、文字を刻みつけていました。その際に版とフィルムがはがれやすいように、画線に隙間をあけて文字を描くのが通例でした。また、スクリーン上で文字が見やすいように独特の骨格で設計されており、画線の両端に筆止めを持たせているのも映画字幕文字の特徴…

TypeBank フォントファミリー TBシネマ丸ゴシック

株式会社タイプバンクはアウトラインフォント、ビットマップフォントのデザイン、販売、普及およびフォントに関するテクニカルコンサルティングなどを行います。 本明朝、ナウシリーズ、UD書体シリーズなどバリエーション豊かな書体を提供します。

 

 

まちなかで見かけるフォントも、元はどこかの誰かの文字だった。

そう考えて見ると、自分のくせ字も、まわりの人のくせ字も、新たな魅力を感じとることができるかもしれません。

自分のことを好きになれない、すべての人へ – 私とは何か 「個人」から「分人」へ

あなたは、自分のことが好きですか?

 

よりよく生きるためには、自分自身をあまり否定してはいけない、自己肯定感を大切にしなければいけない、と言われます。

そうは言っても、どうしても積極的に自分のことを好きになれない、という人はいるでしょう。

そんな人も、この本を読んでみれば、その考え方がすこしだけ変わるかもしれません。

 

著者は、芥川賞受賞作家の平野啓一郎さん。

小説のなかで提言された「分人主義」の考え方を、新書としてまとめたのがこの本です。

日本語の「個人」というのは英語の Individual を訳したもので、その語源は「in + divisual」=分けられない。

人はひとりひとり独立していて分けられない、という西洋のキリスト教的価値観を背景にした考え方です。

平野さんはそれに異議を唱え、自分の人格というものは対人関係の中でいくつにも分かれる、分けられる「分人divisual)」であると主張します。

 

職場における、上司に対する自分。部下に対する自分。

先輩や後輩に対する自分。

趣味友達に対する自分。

 

それぞれ違う顔を見せる自分がいて、どれが本当の自分だということはないのだと。

 

これを読んで、こどものころ教師から「裏表のない人間になりなさい」と言われたときにおぼえた違和感の正体が見えた気がします。

裏表のない人間というのは、誰に対しても同じように接するということであって、それは自分の主張を曲げない頑迷さと紙一重。

紙にだって裏も表もあるのに、人間にないわけがありません。

 

分人というのはリアルな人間関係だけでなく、本を読んだり、インターネットやSNSといったバーチャルな交流のなかでもあらわれます。

この記事の冒頭もそうですが、「凪の渡し場」で、わたしはよく読者に向かって問いかけをします。

それは本を読んでいるときにあらわれる、わたしの分人の態度をそのまま再現していると言えます。

自問自答しながら読み進めることで、自分の中になかった新しい視点を獲得する。そんな視点を誰かに伝えたいと思っているのが「凪の渡し場」にいる和泉みずほという分人なのです。

 

そんな分人は、リアルのわたしを知る人からは意外だと言われることもあります。

けれど、それはどちらかが素の自分だということではなく、単に複数の分人がいるだけのこと。

そう考えると、人間関係はずいぶん楽になります。

 

たとえばわたしは昔の知人に逢うのが苦手だったりするのですが、それは過去の知人に対する分人を思い出すのが嫌なのであって、それで今の自分を嫌いになる必要はないのです。

あるいは、初対面の人と話すのが苦手なのも、どんな「分人」を見せていいかわからないせいだったり。

そうやって、自分のことが好きになれない理由を分けて考えていくことで、辛さも半減していきます。

 

不幸な分人を抱え込んでいる時には、一種のリセット願望が芽生えてくる。しかし、この時にこそ、私たちは慎重に、消してしまいたい、生きるのを止めたいのは、複数ある分人の中の一つの不幸な分人だと、意識しなければならない。

(第3章「自分と他社を見つめ直す」より引用)

 

誰にだって、嫌いな分人ばかりではなく、好きな分人もいるはずです。

 

あの人と一緒にいるときの自分なら、好きになれる。

こういう場にいるときの自分は、とても居心地がいい。

 

そうやって、自分の一部でも好きになることが、自分を大切にして生きることにつながっていきます。

 

自分以外の気持ちを理解するために – 人の心は読めるか? 本音と誤解の心理学

誰しも、自分以外の人の気持ちを理解したいと思うことがあるでしょう。

それは自分にとって大切な人だったり。

仕事上の同僚、あるいはライバルだったり。

いわゆる「読心術」のような能力が本当にあったら、どんなに救われる人がいることでしょうか。

人間関係の悩みの多くは、他人の気持ちを理解することの難しさにあると言ってもいいかもしれません。

 

果たして読心術などというものは本当にあるのか…その謎に、オカルトではなく、まっとうな科学と心理学の手法で挑んだ本がこちら。

 

さて、一言で、この本の結論をネタばれしてしまうと。

 

 

残念ながら、そんなものはありません(!)

 

人間は、自分が思っている以上に、人のことを理解することが難しいようです。

とくに性別、年齢、信条など、自分とことなるカテゴリーにいると思われる相手に対しては、ステレオタイプな見方をしてしまいがちだと言われます。

たとえば「女性は男性より感情が豊かで、よく泣いたり笑ったりする」。

統計的に平均をとれば、そう見える部分もあるかもしれません。

でも、人の内面は、平均を取れるものではなく、ひとりひとり違いがあるもの。

平均的な男女の差をみることは、特定のふたりの関係を見る上では、ほとんど意味がありません。

 

それは、相手のことにあまり共感できないから、はじめから理解できないと思ってしまうようなもの。

それなら、お互いによく知っている間柄だったら、もう少しわかりあうことができるのでは?

 

そんなこいねがうような疑問にも、この本は否定的な答えを出します。

恋愛関係にあるパートナーに、お互いの好きなことなど、さまざまな質問に相手がどう答えるかを実験したところ、たしかに正答率は当てずっぽうよりは高いものだったといいます。

けれど、その確率は、お互いが予測したより、ずっと低いものだったとのこと。

 

「相手がどう思うか?」を相手の視点に立って考えることができるのは、人間の素晴らしい能力です。

でも、それもやはり、自分の視点から勝手な想像をしているだけという危険がつきまといます。

 

本書では、自分の心がハイビジョンテレビの映像だとしたら、他人の心は白黒テレビで観ているようなものかもしれないというたとえが使われています。

相手がどう思っているか、表面的な態度から推し量ろうとしても、情報量には限界があり、本心を誤解してしまうかもしれない。

だから、この本では、相手の視点を獲得するために、直接訊いたほうが早いというアドバイスがされています。

身もふたもない結論のようですが、それは一面、真実かもしれませんね。

少なくとも、本心から相手のことを理解したいと思えるような相手になら、勇気を持って、訊いてみたいことを訊いてみるもの良いかもしれません。