たどりつけない世界 – panpanyaの楽園コミックス

いよいよ今年も残りわずか。

無事に大掃除もひと段落して、心おきなく新年をむかえられそうです。

 

あと、やり残したことといえば、2016年、文章とものがたりをあじわう10冊で触れられなかった、今年に読んだマンガの紹介。

ほんとうは、新しい視点を味わうことのできる作品として、何冊かピックアップするつもりでした。

しかしやはり、この作品(作家)は単独で紹介したいな、と思いました。

それが、白泉社の漫画雑誌「楽園」と、そのWEB増刊に掲載されている、panpanyaさんの作品。

 

もし、あなたがこの記事を2016年中に読んでいるのなら、いますぐ以下のリンクから、WEB増刊12月18日号のpanpanya作品「今年を振り返って」を読んでもらいたいです。期間内であれば、無料で読めるので、ぜひ。

楽園 | 白泉社

「恋愛欲を刺激する」がテーマの新しいコミックアンソロジー「楽園」の紹介ページです。

読み終わったら、この記事にもどってきてくださいね。

 

いかがでしたでしょうか。

 

大掃除の途中に、つい昔の本や雑誌を読みふける、という経験は誰しもあると思いますが、いつのまにか位相がずれて、もどってこれないような場所に迷い込んでしまったような感じ。

そんな、日常ではたどりつけないような場所に読者を誘うのが、panpanyaの世界。

 

何気ないふだんの生活に。

まちあるきの途中に。

ふと出会う、得体の知れない動物たち。見慣れない世界。

 

単行本には、作者の公式サイトで公開されている日記の一部も収録されています。

この方の文章もまた、わたしにとってここちよく、心にしみこんできます。

そこにはやはり、路上観察学などに通じる視点があります。

そんな作者の視点から生み出された作品だからこそ、見覚えがあるようでない、新鮮な光景を垣間見ることができるのでしょう。

 

大掃除のときならずとも、折にふれて、何度でもくり返し味わいたい作品です。

 

 

2016年、文章とものがたりをあじわう10冊

年末ということで、さまざまなところで、この一年に読んだ本、見た映画などを取り上げる企画があります。

まだ知らない新たな作品に出会えるきっかけになるだけでなく、取り上げた作品によって、その人ならではの視点をあらためて知る機会にもなります。

 

ということで今回は、わたしにとってここちよいと感じる文章、その表現からものがたりを感じることのできる本を紹介します。

対象は、2016年に読んだ小説とノンフィクション。マンガはまた別の記事で取り上げます。数を絞りたかったのと、買っただけでまだ読んでいない作品があるので(笑)。

 

北村薫「八月の六日間」

北村薫の創作表現講義でも紹介したとおり、文章が好きな作家の代表格。

雑誌の副編集長をしている「わたし」が、山登りを趣味としてはじめる。山に登るにも本を手放せないというのが、実に北村作品ならではのキャラクター。

 

吉田篤弘「木挽町月光夜咄」

こちらも文章が好きな吉田篤弘さん。クラフト・エヴィング商會のおひとりでもあります。

小説なのか、エッセイなのか、現実と空想がふしぎに入り混じる、どこかにありそうなまちのお話。

 

西村佳哲「自分をいかして生きる」

同じく、ちくま文庫から。

自分だけの生き方、働き方を考える – 自分をいかして生きる で紹介したとおり、人生について、仕事についてとらえ直すきっかけを与えてくれます。

 

姜尚中「逆境からの仕事学」

もう一冊、今年感銘を受けた仕事論。

姜尚中さんも、その語り口、文章がとても好きな方です。ご自身の経験をもとに、人はなぜ働くのか、これからの働き方について語られています。
旧約聖書から引用された「すべてのわざには時がある」ということばに、わたしもうなずくばかり。

 

相沢沙呼「小説の神様」

小説家もまた、仕事のひとつ。学生作家としてデビューしながら本が売れずに苦しむ主人公が、とあるきっかけで出会ったベストセラー作家。

読んでいて辛くなる部分もありますが、それも、ものがたりと向き合う人の宿命。

 

西尾維新「人類最強の純愛」

学生のうちにデビューした作家といえば西尾維新さん。

わたしと同年代ということもあり、ほとんどの作品を読んでいて、その文体には大きな影響を受けています。

メフィスト賞受賞のデビュー作「クビキリサイクル」から登場する人類最強の請負人・哀川潤。彼女の出てくる新作を読むと、変わらぬ旧友に再会したような、なつかしさをおぼえます。

 

森博嗣「魔法の色を知っているか?」

そのメフィスト賞の歴史は、森博嗣さんの「すべてがFになる」からはじまりました。(正確な事情に触れると、ややこしいので割愛)

講談社タイガで昨年からはじまったWシリーズは、「すべてがFになる」の世界観を底流とした、はるか未来のものがたり。

一作だけ読むのではなく、シリーズを読み続けることで、思いもかけないつながりが見えてきます。

 

辻村美月「島はぼくらと」

同じくメフィスト賞作家の辻村深月さん。

瀬戸内国際芸術祭をきっかけに、作者が瀬戸内の島めぐりをしたことで生まれたというものがたり。

島に暮らす高校生たちのお話としても、そして島に縁をもった大人たちの仕事についてのお話としても読める、今年読んだ小説の中では最高峰。

 

港千尋「文字の母たち」

瀬戸内国際芸術祭と並び2016年に開催された芸術祭、あいちトリエンナーレ

その芸術監督を務めた港千尋さんによる、活字をめぐるものがたり。

大愛知なるへそ新聞社の編集部でも何度かお見かけしつつ、気後れしてあまりお話できなかったのですが、なにげないものやまちの風景からきおくをよびさます、港監督の文章がわたしは大好きなのです。

 

松村大輔「まちの文字図鑑 よきかな ひらがな」

最後はやっぱり文字の話になったので、締めはこの本しかありません。
京都のイベントでは、いまでも忘れない、楽しい時間を過ごさせていただきました。

まちなかで見かける看板のひらがな。

その一文字一文字を切り取ることで、なぜかいっそう、裏側にひそむものがたりへの想像をかきたてられます。

 

わたしなりの10冊で、この一年間をものがたってみました。

来年も良きものがたりに出会える年になりますよう。

明朝体とゴシック体のあいだ – アンチック体

日本語フォントの代表といえば、明朝体とゴシック体。

でも実は、そのどちらでもないフォントが、あるジャンルの本では多く使われています。

それが、今回紹介するアンチック体

アンチックセザンヌ M|書体見本|FONTWORKS | フォントワークス

フォントワークスは筑紫書体やロダンなど日本語書体・フォントの販売、OEM書体・フォントの開発、LETSを提供しています。

 

いっけん明朝体のように見えますが、縦棒と横棒の太さが同じゴシック体に近く、筆の強弱がおさえられています。

アンチックはAntique、つまりアンティークと同じ語源。

その名から連想するように、昔の金属活字時代、ゴシック体の漢字と組み合わせて使うためにデザインされた書体だといいます。

 

いまでもアンチック体が使われているのは、辞書の見出しや、マンガのフキダシ(登場人物のセリフ)。

マンガの本編を紹介することができないので、表紙にフキダシのある作品を探してみました。

 

 

ゆるい読書家ネタが楽しい「バーナード嬢曰く」。残念ながら(?)表紙のひらがなは普通の明朝体に見えます。

単に本編のコマを拡大したわけではなく、あくまで表紙として描き下ろされたものだからでしょうか。

 

 

もちろん、フキダシにはアンチック体しか使われないわけではありません。

キャラクターの感情やシーンに応じて、さまざまなフォントが使いわけられています。

ときには、そうやってフキダシのフォントに注目してマンガを読んでみるのも面白いです。

 

そして、その感情が引き立つのも、普通のフキダシにアンチック体が使われているからこそ。

明朝体とゴシック体、そして漫画家と読者をつなぐ、欠かせない存在です。

 

実際に、マンガなどでフリーフォントのアンチック体を使いたいときは、フロップデザインさんのブログを参考にしてみてください。

漫画・同人誌に役立つフリーフォントガイド〜アンチック体・見出し・口調〜コミック描くのに必要なフォントは何?

漫画の吹き出しで使う文字はアンチック体が違和感なくて望ましいです。「アンチック体」とは、ゴシック体の漢字にあわせた明朝体っぽい「かな」が組み合わされた書体。通称「アンチゴチ」として、マンガの吹き出しや、昔の絵本などに多く用いられています。 …

文章であらわす、わたしの姿 – 北村薫の創作表現講義

文章表現には、その著者だけの視点があらわされています。

だから「表現」の文字も「著」の文字も、「あらわす」と読むことができる。

今回は、わたしが読者として偏愛し、また書き手としても憧れを抱いている作家の一人、北村薫さんによる文章表現の本をご紹介します。

 

北村さんは高校の国語教師をするかたわら、日常の謎を描いたミステリ「空飛ぶ馬」で作家としてデビューしました。

当時は、プロファイルを明かさない覆面作家としてデビューしたため、作中の語り手と同じ女子大生だと思っていた読者もいたとか。

のちに、経歴と性別(念のため、男性です)を明らかにして、小説だけでなく評論やアンソロジーの編集などで活躍されています。

 

この本は、北村さんが母校の早稲田大学で受け持った表現の授業をもとにつくられたもの。

昔の小説を題材にした講義や、現代の作家・編集者を招いてのインタビュー、それを学生たちがコラムの形にしていくワークショップなど。

思わず自分も学生として参加したくなるような「北村薫の授業」が、ここにあります。

 

さらに、本の中盤では、北村さんが当時NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演されたときのエピソードも収められています。

この番組は、出演者が卒業した小学校を訪れ、後輩の児童に特別授業を行うというもの。

大学生と小学生という受け手の違いから、授業の表現方法は変わっても、北村さんらしい視点がここにもあらわれます。

 

北村さんが授業を通して伝えたかったというのは「はてな、と思うことの大切さ」。

こどもたちがまちなかで「はてな」と思うことを探し出し、それを自分の物語にしていきます。

 

日常の謎、それは路上観察学やトマソンにもつながる視点。

普通ならそのまま通り過ぎてしまう日常を「謎」という視点で読み直すと、また違った物語が見えてきます。

 

人の視点の数だけ、ものがたりが生まれる。

そのものがたりにあらわれる「わたし」の姿、「あなた」の姿。

文章表現を大切にするということは、それを大切にするということでもあります。

 

 

名古屋の本屋の中心に – ちくさ正文館と、喫茶モノコト〜空き地〜

【追記】2023年、ちくさ正文館は惜しまれつつ閉店しました。この記事はアーカイブとして、当時の文章をそのまま残しておきます。
「喫茶モノコト」は大須の店舗で営業中です。


中日本、中京地区という異名をもつように、東京と京都・大阪の中間に位置する名古屋。

東西の文化の中継地点として、互いに交じり合いながら、独特の文化がはぐくまれてきました。

そんなまちの文化拠点のひとつといえば本屋。では、名古屋の本屋さんの中心といえばどこでしょうか。

わたしにとって、それは名駅のある中村区でもなく、栄のある中区でもなく、千種(ちくさ)区にあります。

栄から地下鉄東山線で2駅。

そこはまた、JR東海・中央本線とも交わる中継点。

そこに、ちくさ正文館という本屋さんがあります。

駅前のターミナル店は予備校も多いので、学生向けの参考書や漫画・雑誌にスペースをとった品揃えです。

けれど、ちくさ正文館といえば、そこから少し歩いた本店。

chikusa-1

このお店については、いままでも多くの本で語られています。

わたしがこの本屋さんをはじめて訪れたのは、ずいぶん前のこと。

でも実はそのとき、このお店がそんなに有名だということを知らなかったのです。

普通にまちあるきをしていて、普通に本屋さんがあると思って入りました。

そして圧倒されました。

こんな品揃えの本屋さんは、後にも先にも、見たことがありません。

ベストセラーが置いていないわけではなく。

買いたいと思って探していた本が必ず見つかるわけでもなく。

けれど、ここに来れば、ここに来ないと出会えなかったような本に、必ずといっていいほど出会える。

それが、実にさりげなく、押しつけがましくなく置かれている。

まるで凪のような、あるいは台風の目のような、その静かな空間のまわりに、大きなエネルギーが渦巻いている。

その意味で、ここが名古屋の中心であると思うのです。

そして、つい先日、このお店の二階が改装され、新しいスペース「喫茶モノコト〜空き地〜」がオープンしました。

chikusa-2

プレオープン企画として、あいちトリエンナーレ2016でも作品を展示されていた、岡部昌生さんと鯉江良二さんによる「ヒロシマの礫」の展示が行われていました。

広島の被爆した土と、こねられた団子。

港千尋監督の言葉に添えられた「あとはこれをどこに投げるかだ!」というキャッチフレーズが印象的です。

chikusa-3
chikusa-4

トリエンナーレがはじまる前にも、同じ場所で、岡部さんの展示が行われていたことを思い出します。

投げられる日を待っていたかのように、静かに時を刻んでいた空間。

リニューアルされて、喫茶店となりながらも「空き地」というキャプションがつけられた場所で、これから何が起こるのか。

11/18(金)〜11/30(水) は写真家・キッチンミノルさんと詩人・桑原滝弥さんの「メオトパンドラ」出版記念展が開催中。

わたしが訪れた際は、まだ定休日など諸々未定だと伺いましたが、徐々にメニューも増やして喫茶店としても充実していくそう。

本屋として、喫茶店として、これからますます楽しみな場所です。