日常のレベルアップ – まちの見方を数値化する

あけましておめでとうございます。

さて、劇場版「呪術廻戦0」を観てきました。
せっかくの新年、ちょっといままでと違った導入をしてみたいという挑戦ですが、もちろんただの迎合ではありません。

人間の負の感情が呪いとして禍をなすという世界観の本シリーズでは、呪いを祓う〈呪術師〉と、祓いの対象となる〈呪霊〉や〈呪物〉に、それぞれ特級から四級までのレベルが存在します。

いわゆるジャンプ作品では、登場人物たちの強さのレベルを読者にもわかりやすく示すため、こういった数値化・序列化の手法がよく使われます。

呪術廻戦」でおもしろいのは、ヒトだけでなくモノにもレベルがあり、しかも同じレベルならヒトのほうが上(「二級術師は二級呪霊に勝つのが当たり前」)、とされていることです。

普通のヒトには見えない呪いを相手取る呪術師という、観るモノと観られるモノの非対称性が強調された設定のように感じます。

(この記事は「呪術廻戦」の考察が目的ではなく、2021年時点でアニメ化された原作8巻までを読んでの印象ですので、その後の展開と異なる点があってもご容赦ください)

では、この視点を、日常を楽しむ、まちあるき・路上観察・都市鑑賞といったジャンルに応用してみましょう。

なお、以下では数字の向きを逆にしたレベル0〜4という表記も併用しました。
これは対象が「なんでもあり」なジャンルなので、特級という究極の状態をイメージしづらいことと、まだ路上観察に目覚めていない状態を〈レベル0〉とするのがわかりやすいと思ったためです。

<(それなら呪術のくだりはいらなかったのでは…?)

(そうですね!)>

実はもうひとつのきっかけが、八馬智さんの「日常の絶景」(学芸出版社)を読んだことです。
本書では、その対象物をスケールの大きさからS、M、XLと分類しています。

それもひとつの軸としてありつつ、対象の見つけやすさ、人口に膾炙する度合いもまた別の軸にならないか、と発想しました。

つまり、絶景は非日常だけとは限らない。日常にも潜んでいる可能性がある。
そして、それらを能動的に探索するプロセスは、とても楽しいものだ。

八馬智「日常の絶景 知ってる街の、知らない見方」(学芸出版社) – はじめに より

レベル0(四級物件・鑑賞者未満)

いわゆる普通の旅行ガイドブックやTV番組で取り上げられるような観光名所、絶景だとか文化財と言われるものが対象になります。

先に書いたとおり、路上観察・都市鑑賞といったジャンルを知らない人にも魅力が伝わりやすく、説明なく楽しめるでしょう。

名古屋城金シャチ特別展覧

レベル1(三級物件・鑑賞者)

もともとは観て楽しむ対象ではなかったけれど、鑑賞者が増え、ある程度市民権を得たものが、これに当たります。

マンホールのふた〉だとか、ダム・工場・暗渠のように書籍の出版や商品展開に耐える知名度のもので、路上観察・都市鑑賞の入門にもうってつけ。
まちなかで三級物件を見つけて楽しめるようになれば、鑑賞者といって良いでしょう。

名古屋市下水道100周年記念マンホールのふた(マンホールカードは23-100-B001)

レベル0(四級物件)との見分けかたは、とくに同じ趣味を共有していない知人・友人に説明して、知らないかどうか。
「ブラタモリ」とかでは当たり前でも、暗渠とか中央構造線は一般常識ではないらしいので要注意です。

知らなくても、説明すればおもしろさをわかってもらいやすく、実際にそこから興味がわいて、この趣味にのめりこむ人も多くいるでしょう。わたしもそのひとり。

レベル2(二級物件・鑑賞者)

さらに知名度が低い…というよりも、当たり前すぎて、そこにあるのに普通の人には見えていない、まるで呪霊のような存在です。

このブログ〈凪の渡し場〉で取り上げたものだと〈パイロン〉だとか、看板の文字など、一見すると面白さがわかりにくいけれど、収集しつづけることで楽しむ目をやしなうことができます。

金シャチ特別展覧のパイロン(白)とフォント

レベル0の人とまちを歩いていて二級物件に遭遇したとき、いきなり写真を撮ったりすると、たいてい変な顔をされるのでご注意を。
なにか見えないものが見える人だと思われるそうです。おそろしいですね。

これがマンホールのふたのような三級物件なら、最近はデザインマンホールが増えてきて、観光案内所などでもマンホールカードをもらえたりするので、まだ説明がしやすい。

そういった助けがなくても「このパイロンはセフテック製のカラーコーンで白色はイベント時によく使われて」とか「金シャチフォントというのがあるけれどこのフォントはウロコの形が違って、右肩上がりが宋朝体っぽくて」などと具体的に説明できるようになると、二級鑑賞者の仲間入り。

「二級鑑賞者には二級物件が見えて当たり前」…かどうかは微妙なところですね。
ジャンルが違えば対象物件に詳しくないこともあるし、知っていても楽しめるかどうかは人それぞれなので、誰かにとっては二級物件でも、他の鑑賞者にとってはそうではないかもしれません。

したがってレベル2・二級の注意書きは「効果には個人差があります。他者との鑑賞にあたっては用法・用量を確認し、充分な説明が必要です」となります。

レベル3(一級物件・鑑賞者)

ここに至ると、いよいよ前人未踏の領域に近づきます。

レベル2・二級までは、「誰かが見つけた楽しみかたを、自分も楽しんでみる」という状態でした。
個人差はあっても、二級物件は既に誰かが見つけたもの。
ここからはそうではなく、自分自身で楽しみかたも、対象も見つけないといけないのです。

だからこそ自由で、真に創造的な世界です。参考にする他者はいません。

もちろん、偶然、同じ物件を別の角度から楽しんでいる人がいることもあります。

〈凪の渡し場〉でいえば、なんとか該当するのが〈あとしまつ看板〉でしょうか。
これですら、〈いぬの看板〉という呼び方で楽しまれている方がいらっしゃいますし、自身の分類も考察もまだまだと感じているので、一級鑑賞者とは自負できないと思っています。

名古屋市の金シャチあとしまつ看板

一級物件を楽しむのに他人は関係なく、理解されなくても良いのです。
路上観察・都市鑑賞の本質により近く、森博嗣さんのいう「個人研究」にもつながってくるでしょう。

レベル4(特級鑑賞者)

最初に書いたとおり、対象物件は既に一級時点で限りがないので、特級というのはイメージしづらいです。
まだ誰にも見つかっていないものを特級というのも変でしょうし。

ですから、観察者・鑑賞者のほうだけ考えてみましょう。

そもそも路上観察というジャンル自体が赤瀬川原平さんや、「考現学」の今和次郎さんといった先人の肩に乗るものです。

赤瀬川原平さんが街中の無用物を〈トマソン〉と名づけなければ、有名な四谷の純粋階段も一級のまま、人知れず消えていったことでしょう。
マンホールのふたも路上観察学会の林丈二さんの書籍によって、一級や二級から降級(?)したものです。

その意味で路上観察学会の方々は、みな間違いなく、それぞれレベル3、一級の目を持っていたことでしょう。
そして本来、自分にしか意味のもたない一級対象物を「見立て」や収集といった行為で、他の人にもわかりやすくすることで、対象物をレベルダウンさせる。
それを特級観察者と呼んでみるのはどうでしょうか。

古くは民芸も柳宗悦によって発見された美のひとつ。

現代で思いうかぶのは、なんといってもみうらじゅんさんです。
ゆるキャラ〉も〈いやげ物〉も、みうらじゅんさんのマイブームからはじまり、そもそもマイブームという言葉自体がみうらさんの造語というのは、レベル1以上の鑑賞者にとっては有名な逸話でしょう。

彼自身、良さがわからないままに収集を続けることで、その面白さを発見し、それを〈一人電通〉活動で広め、レベル0の人々にも見える状態にする。
ゆるキャラを人口に膾炙させ、一級から四級にまで落としてしまう。
それこそ、まさに特級の〈ない仕事〉づくりです。

2021年5月の読書マップ

今回から定期的に、おすすめの本を二次元的に整理する「読書マップ」をつくっていきます。

毎月読んだ本を中心にしつつ、それまで読んだ本でも著者や内容が似ているものを加え、自由な視点でつなげていきます。なお、新刊に限らず古本、電子本、家の本棚に眠っていたものなどが混在しているので、現在入手困難なものが含まれますがご了承ください。

読書マップ2021年5月

まずは4月の最後に読んだ高原英理「歌人紫宮透の短くはるかな生涯」(立東舎)から。

1980年代に活躍した紫宮透という架空の歌人を主人公に、彼の短歌とその解説を軸に、彼の生きた時代を虚実取り混ぜて描いた独特な小説です。
穂村弘さんの対談集「あの人と短歌」には、本書を執筆中の高原さんとの対談が収められています。高原さんが紫宮透として詠んだ歌に対する穂村さんの解釈も小説に生かされていて、両方読むと楽しい。

さらに穂村弘つながりで「短歌遠足帖」(ふらんす堂)と「きっとあの人は眠っているんだよ」(河出文庫)。

「短歌遠足帖」は同じく歌人の東直子さんと一緒に、萩尾望都さん、麒麟の川島さんなど多彩なゲストとさまざまな場所を訪れて短歌を詠む。同じものを見ていても切り取りかたがまるで違う、吟行ツアーは本当におすすめです。

「きっとあの人は眠っているんだよ」は日々買った本、読んだ本を紹介していく読書日記。
panpanyaから筒井康隆まで、穂村さんの読書の嗜好はおどろくほどわたしと近く、読書マップで紹介していくと我が家の蔵書全部とリンクしそうな勢いなので自重します(笑)。
その思考回路に近いものを感じつつ、短歌においては共感よりも常人の発想を超えた奇想が中核にあることも穂村さんの魅力ではないかと思いつつ、その話はきっとまた来月。

歌集では音楽を感じさせるタイトルの工藤玲音「水中で口笛」(左右社)、杉﨑恒夫「食卓の音楽」(新装版/六花書林)とつなげてみます。

杉﨑恒夫さんは東京天文台に勤務されていた方ですが、同じく天文学者である石田五郎さんの文章も近い詩性を感じます。代表作「天文台日記」が良かったので「星の歳時記」(ちくま文庫)を古本屋で見つけて購入。四季折々の星座、天文現象を歳時記の形で描くエッセイで、短歌も紹介されています。
ちなみに〈杉﨑恒夫 石田五郎〉でGoogle検索してみたら1件もヒットせず、このリンクにほとんど誰も気づいていないとしたら驚きです。

数学上の難問を取り上げた本としては、SF小説で有名になった〈三体問題〉を数学的・天文学的な視点から解説した浅田秀樹「三体問題」(講談社ブルーバックス)に、素数にまつわる謎〈リーマン予想〉が意外な形で素粒子の世界とシンクロするマーカス・ドゥ・ソートイ「素数の音楽」(新潮文庫)もおすすめ。

大人になってもこのような知的好奇心を満たす勉強・個人研究の大切さを語る森博嗣「勉強の価値」(幻冬舎新書)は、「ライフピボット」(インプレス)とも親和性が高そうです。

ライフピボットはこちらの記事で取り上げましたが、この本で継続の大切さを再認識したこともあり、個人的に提唱している〈読書マップ〉もコツコツ発信を続けていきます。

〈読書マップ〉は読んだ本人だけに意味のあるものに見えて、それをアウトプットすることで、思わぬ形で思わぬ誰かのためになるかもしれません。

そんなライフピボットでいう発信とギブの関係は〈利他〉という考え方にもつながってきます。
中島岳志さん・若松英輔さんなど東工大「未来の人類研究センター」のメンバーによる「『利他』とは何か」(集英社新書)は、ライフピボットの出版記念オンラインイベントでも触れられていました。

それとは別に、書店でタイトルに惹かれて手にとったのが松本敏治「自閉症は津軽弁を話さない」(角川ソフィア文庫)。
いわゆる自閉スペクトラム症、非定型発達の子供たちは津軽弁などの方言を話さない、という都市伝説のような噂を臨床的・学術的に検証していく本です。やがて明らかになる、方言・話し言葉とコミュニケーションの密接な関係に驚きます。

以上が2021年5月の12冊。この中から、また6月の読書マップにつなげていきたいと思います。

2020年、越境する12冊+読書マップ

2020年も、まもなく終わりを迎えようとしています。

いまだ収束の兆しが見えないCOVID-19により、働きかたも、暮らしかたも大きく変わった一年でした。

そんな中で選ぶ〈今年の本〉。
直接的にコロナ禍を扱った本はなるべく避け、こんな時代だからこそ、本を通して外の世界を知る〈越境〉をテーマに12冊を選んでみました。

また、本をして語らしむる – 読書マップ(仮)のすすめで提唱した読書マップで本どうしのつながりを表し、関連書籍も加えてみます。

去年までの〈今年の本〉記事はこちら。

まずは読書マップから。

では、ひとつずつご紹介します。


0 総記

読書猿「独学大全」(ダイヤモンド社)

「アイデア大全」「問題解決大全」の著作もある読書猿さんの新刊です。

さまざまなジャンルを越境して、学び続けることの意義、その方法までが網羅されていて、ずっとかたわらに置いておきたい本です。

読書マップは、この本でも紹介されている日本十進分類法を参考に作成しました。

1 哲学

住原則也 「命知と天理」(天理教道友社)

日本唯一の宗教として知られる奈良県天理市。

そこを戦前に訪れた松下幸之助は、その壮大な都市計画と、それを生み出す精神に大きな感銘を受けたといいます。

それをヒントに、朝会・夕会や事業部制といった、それまでの産業界の常識を覆す試みを松下電器(現・パナソニック)に持ちこみ、戦後の発展につながります。

哲学(宗教)の分類に入れましたが、産業との越境という観点で楽しめる一冊です。

もう一冊、宗教家の釈徹宗さんと、歌人であり科学者の永田和宏さんによる対談「コロナの時代をよむ」(NHK出版)も越境の対談。
物語(ナラティブ)と情報(エビデンス)、どちらにもかたよらずに、両者の橋渡しをしようとするおふたりが印象的です。

永田和宏さんの歌人としての著作は 9 文学で紹介します。科学者としての著作も多く、未読だったことが悔やまれます。

3 社会科学

松村圭一郎「はみだしの人類学」(NHK出版)

いったん2を飛ばして3へ。

NHK出版の「学びのきほん」は、さまざまな著者による講義がコンパクトに納められ、そのデザインも含めて面白いシリーズです。

釈徹宗さんの本も年末に出版されましたが未読のため、こちらの本を選びました。

分断よりも「はみだし」のある社会でありますよう。

室橋裕和「日本の異国」(晶文社)

ときに画一的といわれる日本の都市にも、それぞれの特徴があり、それぞれの日常があります。

インド、ミャンマー、バングラデシュ…。

さまざまな理由で日本を訪れ、定住した人々が織りなす都市の様相を描き出します。

辺境探検家の高野秀行さんが帯文を寄せるとおり、「ディープなアジアは日本にあった」。ステイホームで異文化を感じられる一冊です。

食文化という観点でリンクする「発酵文化人類学」も刺激的な一冊。

6 産業

北島勲「手紙社のイベントのつくり方」(美術出版社)

多くの大規模イベントが中止となった2020年、いち早くオンラインで新たな試みをはじめた手紙社の北島勲さんの著作です。

オンラインイベントやセミナーも普及が進みましたが、現実のイベント体験との差はまだまだ大きく、これからの進化が気になるところです。

7 芸術

雪朱里「時代をひらく書体をつくる。」(グラフィック社)

フォントは印刷の一分類と考えれば芸術に入るのでしょうか。

もちろん、本づくり・ものづくりは産業とも密接に関わります。

現在のようなデジタルフォントが普及するまえ、活版印刷や写植(写真植字)の時代から文字に携わってきた橋本和夫さんのインタビューをまとめたもの。

技術や社会が変わるとともに、フォントもまた変わっていきます。

今年は〈凪の渡し場〉であまり紹介できませんでしたが、フォントに関する新刊はまだまだ他にもあります。

2 歴史

シャロン・バーチュ・マグレイン「異端の統計学 ベイズ」(草思社)

ここで2に戻りましょう。

といいつつ、一般的な歴史ではなく、ひとつの技術に焦点を当てたり、科学史を経糸にした本がさいきんのお気に入りです。

人工知能の分野などでも注目されているベイズ統計は当初、多くの科学者から異端視され、むしろ学界より産業界で利用がひろがっていったといいます。

これもまた、越境する科学のひとつ。

4 自然科学

加藤文元「宇宙と宇宙をつなぐ数学」(KADOKAWA)

数学は自然科学とは別の学問ですが、ここは10進分類に従います。

数学界の難問のひとつとされるABC予想を解決に導いた、望月新一教授による〈宇宙際タイヒミュラー(IUT)理論〉。「未来から来た論文」とも言われるその斬新な発想を、望月産と親交のあった著者が丁寧に解説します。

元になったのが川上量生さんにより企画されたニコニコ動画の講演というのもユニークです。

科学・数学の本といえば、2020年のノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズの業績を解説する「ペンローズのねじれた四次元」も面白いです。

9 文学

三島芳治「児玉まりあ文学集成」(リイド社)

いよいよ最後の9です。まずはタイトルに〈文学集成〉を冠したこちらのマンガから。

結城浩さんの「数学ガール」に対比すれば、こちらは言わば文学少女。

詩のように改行の多い話し方をする文学的な少女・児玉さんと笛田くん、ふたりだけの「文学部」の活動。

一話ごとに紹介される参考文献も楽しみです。

〈男子が好きなやつ〉として紹介されていた「未来のイヴ」が気になったので読んでみたところ、あのエジソンがアンドロイド(※携帯電話ではない)を発明していたというおどろきのSF小説でした。
男子、好きですよね。

「真鍋博の世界」(PIE)

SFといえば秋に開催された真鍋博展の図録は外せません。

少し感染が落ち着いた時期で、あこがれの筒井康隆さんの講演を聴けたことも幸せでした。

河野裕子・永田和宏「たとへば君 四十年の恋歌」(文藝春秋)

ふたたび永田和宏さんです。乳癌により逝去された妻の河野裕子さんと学生時代から交しあった短歌を収録した歌集・エッセイ集。

四十年という時間をともに過ごす存在がいるということは、いまのわたし想像を超え、つむがれる歌は胸を打ちます。

たとへば君 ガサッと落葉すくふやうにわたしを攫つて行つては呉れぬか

河野裕子 – 「たとへば君 四十年の恋歌」(文藝春秋)第一章より

一日が過ぎれば一日減つてゆく君との時間 もうすぐ夏至だ

永田和宏 – 「たとへば君 四十年の恋歌」(文藝春秋)第六章より

穂村弘「あの人と短歌」(NHK出版)

最後は、歌人・穂村弘さんが各界の短歌が好きな〈あの人〉と語り合う対談集。

昨年「北村薫のうた合わせ百人一首」を紹介した北村薫さんはもちろん、ブックデザイナーの名久井直子さん、翻訳家の金原瑞人さんなど、さまざまな分野との〈越境〉が楽しめます。

対談集を読むと、対談相手の著作にも興味がわき、読みたい本が増えてしまうのが困った(?)ところ。
いわば対談集一冊のなかに読書マップが織りこまれているようなものです。

それでいくと、この本では対談相手はもちろん、穂村さんとの間で話題に上る詩歌までも気になって、マップは三次元的にひろがります。

そしてまた、次の本との出逢いが待っているのです。


〈本を読む〉という日常がある幸せに感謝しつつ、2021年も、良い本を。

棋士のみの見る景色

職業として将棋を指す(あるいは囲碁を打つ)、棋士という存在にあこがれがあります。

限られた盤面のなかで、しかし複雑な駒の動きにより、無数とも言える局面が対局ごとに浮かびあがります。

そのなかで数十手、数百手の先を読み、勝ち筋を見つけてゆく。

世が世ならば天才軍師として実際の戦略・戦術に使われたかもしれないその頭脳が、純粋に盤上での勝負のみに展開されることは、喜ぶべきことなのかもしれません。

 

中でも注目をあつめる棋士はやはり、2016(平成28)年に史上最年少の中学二年生でプロ四段に昇段し、ことし2020(令和2)年には将棋界のタイトルである棋聖・王位を獲得した藤井聡太二冠でしょう。

といいつつ、わたしの世代では、同じく中学生でプロ入りを果たした羽生善治九段の活躍が印象に残っています。

平成元年に初タイトルを獲得して以来、平成時代のほとんどにわたってタイトルを保持し続け、引退後は永世七冠を名乗る資格をすでに獲得しています。

一時は当時の公式タイトルすべてを制覇したこともあるなど、その記録は圧倒的です。

それだけに、平成のおわりにタイトルを失い無冠となり「羽生九段」を名乗ったときは衝撃でした。

ちょうど明日(9月27日)で50歳の誕生日を迎えられる羽生さんですが、令和になって初のタイトル戦(竜王戦)の挑戦者となったり、先日も藤井さんとの対局で勝利をおさめたりなど、活躍が続きます。

将棋のような頭脳戦では、どうしても年齢の若いほうが有利に見られるようですが、そういった新世代との対局によって、羽生将棋もまた進化していくのかもしれません。

一例を挙げれば、羽生さん自身、タイトル制覇の手前で、すこし上の世代である谷川浩司王将(当時)に奪取を阻まれたという経験があります。

(その翌年、他のタイトルすべてを防衛したうえで再挑戦し、制覇を達成したという、あまりにも劇的で有名なエピソードもあります)

藤井さん黄金時代ののろしが上がる中、羽生さん世代にも、それに負けず劣らずの活躍を期待してしまいます。

 

上の世代を応援するか、下の世代を応援するか。

それもまた勝手な感傷であり、鑑賞なのかもしれません。

将棋盤の上では、年の上下などはなく、同じ駒による戦いがあるだけです。

先の見えない世界で、先を読むには、一手一手、それぞれの駒を動かし続けるしかない。

そんな棋士の見る景色を、美しいと思います。

 

 

ことばを信じる、価値を届ける – 書くための勇気

2020年、世の中は厳しい状況が続いています。

あやふやな言説にまどわされそうになったり、極端な主張を一方的に投げつけんばかりの傾向を見ると、ことばを発する行為じたいをあきらめてしまいたくなります。

けれど、それでも。

誤解されても、迷いながらでも、ことばの力を信じる勇気を思い起こさせてくれる本に出会いました。

それが『書くための勇気 「見方」が変わる文章術』です。

本や論文だけでなく、ブログやSNSなど、現代は文章を「読む」「書く」可能性がますますひろがっています。

編集者や大学講師としても活躍する著者の川崎さんは、こんな時代だからこそ、心を折られない「強い文章」を書くための技術を、以下の四章に分けて解説していきます。

  • 言葉を考える/批評の準備
  • 言葉を届ける/批評を書く
  • 言葉を磨く/批評を練る
  • 言葉を続ける/批評を貫く

批評と言っても堅苦しいものではなく、この本では〈「価値」を伝える文章〉という広い意味でとらえています。

このブログ〈凪の渡し場〉で行ってきた、本やイベントの感想をことばにする手続きも、日常を新しい視点でとらえ直す過程も、「価値」を発見して文章にする〈批評〉だったと気づきます。

 

そして、その「価値」を誰に向けて届けるかをイメージする作業によって文章の書き方は変わります。

同じ価値観をもった人に同じ意見を伝えるだけでは、新しい批評は生まれません。

むしろ文章に対する異論を認めて、書き手も読み手も変化を受け入れる姿勢が大切だといいます。

 

わたしの場合、表現に対する異論や批判を恐れすぎる傾向があるのが反省点です。

もちろん、けっして感情に流されたことばを書きつらねれば批評になるわけではなく、そうした文章は本書では〈悪い例〉として徹底的に否定されています。

ただ、異なる意見、異なる感情が存在する現実を認める、それだけでずいぶん感情的な対立は避けられるのかもしれません。

本書の中から例を挙げると、〈数字は疑われる〉〈数字を無視する〉といった章は、理科系の文章技法からはまず出てこない視点でしょう。

むしろ数字やグラフのない個人的な主張こそ疑わしいという意見も当然あるわけで、そちら側からの反論はいくらでもできます。

そうした対立が辛いと思う気質ではありながら、いったん異なる感情を認めたうえで、自分の感情を客観的に分析する作業が、いくぶんその辛さをやわらげてくれるかもしれません。

 

P.S. この記事では本書の〈コトコトするな〉という章に従って、いったん文章を書いたあとで「こと」と書いていた九箇所を他の名詞に置き換え、もしくは削除してみました。少しわかりづらいですが、置き換えた部分はボールド(新ゴ M)にしています。

こと」には「こと」で、はっきりと書かない効用はあるとは言え、こんなにコトコトした文章を書いていたのは意外でした。

本当に「こと」のままでいいのか? という文章トレーニングとして実践していきたいです。