本をして語らしむる – 読書マップ(仮)のすすめ

おすすめの一冊は? という質問が苦手です。

それなりに多くの本を読んできていると、どうしても一冊に絞りきれません。

また、一冊の本に対して〈この本を読んだら、次はこちらもおすすめ〉というのも、本の著者だったり、テーマだったりとおすすめの切り口はいくつもあります。

つまり、本というのは点のように一冊で完結するわけでも、一直線に並ぶわけでもない、二次元の面的なひろがりのある世界なのです。

そこで、おすすめの本を平面のマップにする〈読書マップ〉(仮)を思いつきました。

〈本地図〜ほんちず〜〉とか〈書物の地平面〉とかいったネーミングも考えましたが、正式名称はそのうち考えます。

 

百聞は一見にしかず、さいきん読んだ本を中心に読書マップを作ってみました。クリック/タップで拡大します。

 

左上、読書マップのヒントになった斎藤孝さんの「偏愛マップ」がスタートです。

斎藤さんは自己紹介などに使えるツールとして、自分の好きなことをマップにしてみる〈偏愛マップ〉を提唱されています。

マップの書き方は自由なので、マップ自体にもその人の個性が出て面白いです。

ツールという切り口で、次の本は文化人類学者の川喜田二郎さんによる「発想法」。

フィールドワークやブレーンストーミングで得られた情報をまとめる手法として、本人のイニシャルをとった〈KJ法〉が有名です。

KJ法は「データをして語らしむる」という奥の深い手法で、カードとよばれるそれぞれのデータの相関を図解するだけにとどまらず、それをストーリーとして語る叙述化によってその真価を発揮します。

読書マップも、本と本との相関を語ることで、新たな物語が見えてきます。

 

どういうことか、マップをさらに広げていきましょう。

 

斎藤孝さんといえば「声に出して読みたい日本語」「呼吸法」など著作の多さで知られるため、同じく多作の作家・森博嗣さんを連想しました。

有限と微小のパン」は、とあるソフトウェア会社が長崎に設立したテーマパークを舞台にした初期シリーズ。VR(ヴァーチャルリアリティ)や人工知能など、20年前の作品とは思えない最先端の技術が描かれます。

シリーズのなかでよく出てくる数学的なモチーフから、加藤文元さんの「数学する精神」に線が延び、また舞台のモデル・ハウステンボスに錯視を利用した作品のあるエッシャーつながりで「ヒトの目、驚異の進化」にも線が延びます。

どちらの本からもつながるのは、数学者として、また「光学」などの科学者として有名なニュートン。実は彼は晩年、ロンドン造幣局の監事として、大がかりな贋金事件の真犯人を追っていました。「ニュートンと贋金づくり」はノンフィクションながら、まるでミステリー小説の名探偵のような論理の冴えが楽しめます。

 

左端に戻って、森博嗣さんと言えばメフィスト賞の第1回受賞者。同じくメフィスト賞を受賞し、森博嗣への影響を公言する西尾維新を置いてみましょう。

「贋金づくり」・古今東西の偽物や贋作を紹介した「ニセモノ図鑑」・そして西尾維新「偽物語」がニセモノという線でつながります。

「ヒトの目、驚異の進化」では人間の目が他の動物と異なる進化を遂げた過程が語られますが、ユクスキュルの〈環世界〉というキーワードで似たテーマを扱うのが生物学者・日高敏隆さんの「動物と人間の世界認識」。

日高さんと同じくネコ好きで有名な新井素子さんの「ダイエット物語…ただし猫。」には、西尾維新の「猫物語」にもヒゲ…線を延ばしておきます。

ネコの柄の違いを遺伝的に説明したのが「ネコもよう図鑑」。相変わらず図鑑が好きです。

猫本からはもう一冊、仁尾智さんの猫短歌「猫のいる家に帰りたい」(初版特典ちゅ〜る袋つき)を挙げておきます。

短歌といえば先月も紹介した松村由利子さんの「短歌を詠む科学者たち」ですが、これは短歌に魅せられた科学者の生涯を描いた本なので「ニュートンと贋金づくり」から線を延ばしましょう。

この本で紹介されている永田和宏さんと河野裕子さんのご夫妻は「北村薫のうた合わせ百人一首」にも登場していましたが、永田さんが科学者としても著名な方というのは「短歌を詠む科学者たち」ではじめて認識しました。これぞまさに「詩歌の待ち伏せ」でしょう。

北村薫さんといえば森博嗣「笑わない数学者」にも重要な解説文を寄せており、これで見事に円環が閉じました。

 

永田・河野夫妻による「京都うた紀行」は先日買ったばかりの未読本なので、今回のマップはここまで。

 

駆け足で紹介した〈読書マップ〉、いかがだったでしょうか。ぜひご自身の好きな本で読書マップを作ってみてください。

 

忘却するわたしたちの、夢と現実を区別するもの

人は忘却する存在です。

小説家・西尾維新の作品に、一日ごとに記憶がリセットされる「忘却探偵」掟上今日子を主人公とするシリーズがあります。

今日子さんほどでなくても、わたしたちは毎日、いろいろなことを忘れていきます。

朝起きたとき、見ていた夢のことをすぐ忘れてしまうように。

現実にあったことも、時間がたてば忘れてしまいます。

しっかり記憶したつもりでも、現実にあったことなのか、夢だったのかさえ、あいまいになることも。

 

では、夢と現実を区別するものはなんでしょうか。

 

それは、現実に起きたことは忘れないように文章や写真で記録したり、モノとして形にすることができる点。

夢の中で建てたお城は、どれだけ大きくても目を醒ませば消えてしまうけれど、現実で作ったものは、どれだけ小さくても残ります。

 

まさしく、区別するモノ。

その意味で、モノは自分の記憶を構成する一部であるともいえるでしょう。

 

今日子さんは探偵としての守秘義務のため、自分の身元を証明するものや、記録をいっさい残しません。

唯一の記録は、彼女自身の体に書かれた備忘録。

シリーズ最新刊「掟上今日子の旅行記」では、それを犯人に悪用され、自分がエッフェル塔を盗む「忘却怪盗」であると誤認識させられてしまいます。

 

モノによって揺らぐ、探偵・掟上今日子という存在。

わたしたちも、不意にそんな気持ちを実感することがあります。

 

LINEのトーク履歴が消えてしまったとき。

パソコンに保存していた写真や日記が消えてしまったとき。

あるいは、大切な思い出の品をなくしてしまったとき。

 

自分の体の一部がなくなってしまったような幻視、喪失感をおぼえます。

 

だからこそ、データはこまめにバックアップして。

旅行に行ったときは、自分や誰かのために、大切な思い出にしたいお土産を買うのでしょう。

 

 

今日子さんは旅行に行ってもお土産を買うことはないでしょうけれど。

西尾作品の中でも最速の刊行ペースで掟上今日子の「記録」が形として残されていくのは、そんな意味合いもあるのかなと感じます。

 

 

2016年、文章とものがたりをあじわう10冊

年末ということで、さまざまなところで、この一年に読んだ本、見た映画などを取り上げる企画があります。

まだ知らない新たな作品に出会えるきっかけになるだけでなく、取り上げた作品によって、その人ならではの視点をあらためて知る機会にもなります。

 

ということで今回は、わたしにとってここちよいと感じる文章、その表現からものがたりを感じることのできる本を紹介します。

対象は、2016年に読んだ小説とノンフィクション。マンガはまた別の記事で取り上げます。数を絞りたかったのと、買っただけでまだ読んでいない作品があるので(笑)。

 

北村薫「八月の六日間」

北村薫の創作表現講義でも紹介したとおり、文章が好きな作家の代表格。

雑誌の副編集長をしている「わたし」が、山登りを趣味としてはじめる。山に登るにも本を手放せないというのが、実に北村作品ならではのキャラクター。

 

吉田篤弘「木挽町月光夜咄」

こちらも文章が好きな吉田篤弘さん。クラフト・エヴィング商會のおひとりでもあります。

小説なのか、エッセイなのか、現実と空想がふしぎに入り混じる、どこかにありそうなまちのお話。

 

西村佳哲「自分をいかして生きる」

同じく、ちくま文庫から。

自分だけの生き方、働き方を考える – 自分をいかして生きる で紹介したとおり、人生について、仕事についてとらえ直すきっかけを与えてくれます。

 

姜尚中「逆境からの仕事学」

もう一冊、今年感銘を受けた仕事論。

姜尚中さんも、その語り口、文章がとても好きな方です。ご自身の経験をもとに、人はなぜ働くのか、これからの働き方について語られています。
旧約聖書から引用された「すべてのわざには時がある」ということばに、わたしもうなずくばかり。

 

相沢沙呼「小説の神様」

小説家もまた、仕事のひとつ。学生作家としてデビューしながら本が売れずに苦しむ主人公が、とあるきっかけで出会ったベストセラー作家。

読んでいて辛くなる部分もありますが、それも、ものがたりと向き合う人の宿命。

 

西尾維新「人類最強の純愛」

学生のうちにデビューした作家といえば西尾維新さん。

わたしと同年代ということもあり、ほとんどの作品を読んでいて、その文体には大きな影響を受けています。

メフィスト賞受賞のデビュー作「クビキリサイクル」から登場する人類最強の請負人・哀川潤。彼女の出てくる新作を読むと、変わらぬ旧友に再会したような、なつかしさをおぼえます。

 

森博嗣「魔法の色を知っているか?」

そのメフィスト賞の歴史は、森博嗣さんの「すべてがFになる」からはじまりました。(正確な事情に触れると、ややこしいので割愛)

講談社タイガで昨年からはじまったWシリーズは、「すべてがFになる」の世界観を底流とした、はるか未来のものがたり。

一作だけ読むのではなく、シリーズを読み続けることで、思いもかけないつながりが見えてきます。

 

辻村美月「島はぼくらと」

同じくメフィスト賞作家の辻村深月さん。

瀬戸内国際芸術祭をきっかけに、作者が瀬戸内の島めぐりをしたことで生まれたというものがたり。

島に暮らす高校生たちのお話としても、そして島に縁をもった大人たちの仕事についてのお話としても読める、今年読んだ小説の中では最高峰。

 

港千尋「文字の母たち」

瀬戸内国際芸術祭と並び2016年に開催された芸術祭、あいちトリエンナーレ

その芸術監督を務めた港千尋さんによる、活字をめぐるものがたり。

大愛知なるへそ新聞社の編集部でも何度かお見かけしつつ、気後れしてあまりお話できなかったのですが、なにげないものやまちの風景からきおくをよびさます、港監督の文章がわたしは大好きなのです。

 

松村大輔「まちの文字図鑑 よきかな ひらがな」

最後はやっぱり文字の話になったので、締めはこの本しかありません。
京都のイベントでは、いまでも忘れない、楽しい時間を過ごさせていただきました。

まちなかで見かける看板のひらがな。

その一文字一文字を切り取ることで、なぜかいっそう、裏側にひそむものがたりへの想像をかきたてられます。

 

わたしなりの10冊で、この一年間をものがたってみました。

来年も良きものがたりに出会える年になりますよう。

「やらない理由」を考えすぎてしまう人に贈る言葉

内向型人間がもつ特徴のひとつに「慎重さ」があります。

 

何かをするときに、まずよく調べてから行動したり、なにも考えずに発言することがなかったり。

それは強みでもあり、弱みにもなる、いわば諸刃の剣。

慎重であることは、リスクを避けようとする気持ちのあらわれですが、同時にチャンスを逃してしまうことにもなりかねません。

 

わたし自身、新しいことをはじめる前や、誰かに声をかけようとする前は、慎重さが不安に変わり、考えすぎてしまうことがよくあります。

そんなときは、「やる理由」よりも「やらない理由」を多く見つけ出そうとしてしまいがち。

その両方を天秤にかけて、やっぱりやらないほうがいい…と、無理やり自分を安心させようとしてしまう。

 

でも、やったほうがいい、やらないほうがいいなんて、やってみないとわからないことも多いもの。

客観的な分析が得意なぶん、ほんとうは不確実な要素を「やらない理由」に数えあげてしまう、見せかけの分析をしてしまう危険があります。

 

そんなときに、思い出したい言葉があります。

 

戯言シリーズ、最強シリーズなどをはじめとする、西尾維新さんの小説に登場するキャラクター、哀川潤はこう言います。(正確には、彼女がある人物から贈られた言葉として語ったもの)

「嫌なことは嫌々やれ。好きなことは好きにやれ」

哀川潤(西尾維新「零崎軋識の人間ノック」講談社文庫刊)

この言葉から、どんなことを感じるかは人それぞれでしょうが、嫌なことでも、嫌々でもやるというところが今回のポイント。

好きなことしかやってないように見える潤さんが語るからこそ、この言葉の面白みは出てくるのですが、その話はまたの機会として。

 

あるいは、米澤穂信さんの「氷菓」をはじめとする古典部シリーズの主人公に言わせるなら、こうでしょうか。

「やらなくてもいいことなら、やらない。やるべきことなら手短に、だ」

折木奉太郎(米澤穂信「氷菓」角川文庫刊)

 

これもまた、彼なりの省エネ思想の言葉なのですが、こういうふうにとらえることもできます。

やるかやらないかの判断基準として、やりたいかどうかではなく、やるべきかどうかだけを考える。

 

やりたくないことを嫌々やるか、手短にやるかはともかくとして。

「やらない理由」を探し出していることを自覚したら、いったんこんなふうに視点を変えてみると、不安にとらわれることなく、前に進むことができるかもしれません。

 

 

原平という人がいた! – 赤瀬川原平の全宇宙

誰もが人生のなかで、いろいろな人に逢い、いろいろな本を読み、その影響を受けていきます。

けれど考えてみれば、その出逢った人も、本を書いた人も、また別の誰かから影響を受けて人生を生きています。

 

ふとした瞬間に、その源流、言ってみれば元ネタを知ることがあります。

わたしにとって、赤瀬川原平という作家はそんな源流…あるいは「原流」ともよべる存在です。

 

赤瀬川原平さんは1937年生まれ、2014年没。芸術家として活動したり、尾辻克彦という名前で書いた小説が芥川賞を受賞したりと、きわめて広範な活動をしていました。

そんなわけで、赤瀬川さんの名前を意識することはなくても、その影響を受けた人や活動がたくさんあります。

 

たとえば、街中のちょっと変わったもの、おかしな看板に目を留めること。

こどものころ、宝島社の「VOW」という本を読んで、そんなモノの見方があることを知り衝撃を受けました。

その源流は紛れもなく、赤瀬川原平さんの「トマソン観測センター」、そして路上観察学。

トマソンというのは、当時の読売巨人軍の助っ人外国人、トマソンから。

4番打者なのにまったく活躍しないというところから、街中の無用物をトマソンと名づけました。

当人には傍迷惑な話でしょうが、普通の人が見過ごしてしまうようなものに着目する感性、それを多くの人が興味を引くように「見立て」で語る手法は卓越しています。

一人で「ない仕事」を作る、みうらじゅんさんにも通じるところがあります。(実際、みうらさんも赤瀬川さんの本の解説を書いています)

その視点は、辞書にも向けられます。

新明解国語辞典」の例文がおもしろいことに気づいて書かれた「新解さんの謎」。

「舟を編む」などの辞書ブームの背景にもなっているのではないでしょうか。

 

変わったところでは、昔流行した3Dステレオグラム

なんと、これも赤瀬川さんが早くから目をつけていたのだそう。

二次元の写真が三次元になるという視点の転換。いま流行のARやVRも、そういう視点で考え直すと新しい発見がありそうです。

 

ちなみに、わたしが赤瀬川原平という名前を意識したのは、実はアニメ化物語

 

主人公の阿良々木暦が八九寺真宵におこづかいをあげるシーンで、千円札に「赤瀬川」と書かれています。

何のこと? と思って調べたら、アート作品の中で千円札をコピーして、裁判にまでなってしまった事件が元ネタの様子。

もちろん、西尾維新原作には一行たりともそんな記述はありません。

アニメ<物語>シリーズの演出自体、赤瀬川さんや、あるいはさらにその源流となる明治期の雑誌編集者、宮武外骨の影響がありそうです。

 

これからも、新しく興味をもったことが、実は意外な先人によって切り拓かれた道だったということがあるかもしれません。

 

それは、はるか昔、見知らぬ誰かから、しっかりとバトンを渡されたということ。

そして、わたしも、未来の誰かにバトンを渡せるようになれば嬉しく思います。