毎日、わたしたちはさまざまな人とあいさつを交わして暮らしています。
おはよう。
こんにちは。
こんばんは。
おやすみなさい。
「おはようからおやすみまで」というキャッチコピーもありますが、よく考えると、このふたつのあいさつは、活躍の場面がいくらか異なります。
「おはよう」は、朝、目を覚まして顔を合わせる家族に対して。
だけではなく、通勤・通学途中ですれ違う、ご近所の人々にも。
そして会社に着いて同僚や上司に、学校だったら友達・先生に。
最近では、SNSで起きた瞬間に「おはようございます」とつぶやく人も増えていますね。
わたしの場合「おはよう」と言おうにも、そんなに朝起きるの早くないし…という謎のためらいがあって、なかなか自分からは言い出せないのですが、それでも「おはよう」が並ぶタイムラインはここちよいものがあります。
と、そう言っておいてなんですが、別に「おはよう」は朝言うものとは限りません。
何時になっても「おはようございます」があいさつになっている業界もあったり。
ずいぶんと幅広く使われている、そんなあいさつなのです。
それに対して「おやすみ」は。
帰宅前に同僚や友達に向かって言うことは、あまりないでしょう。
「またね」「さようなら」「お疲れさま」…その場や相手との関係性に応じて、かわりにさまざまなあいさつが使われます。
それはまるで、出会いのかたちはみな似通っているのに、別れのかたちは人それぞれ…なんて、そんな深い理由が隠されているようでもあります。
人生の中で「おはよう」と「おやすみ」を言った・言われた回数を数えてみたら、きっと前者の方が圧倒的に多いはず。
でも、だからといって。あるいは、だからこそ。
数少ない「おやすみ」を言われてうれしかったこと、そうやって記憶に残る割合は、けっして少なくありません。
たとえば、こどものころの、両親との「おやすみ」。
あるいは喧嘩して、ちゃんと「おやすみ」を言えなかった夜だってあるかもしれません。
修学旅行や部活の合宿で、みんなで寝泊まりした夜の「おやすみ」。
大人になっても、ちょっと思い出に残っている「おやすみ」があります。
それは、わたしが会社に入ってまだ日が浅いころ。
出張で、遅くまで仕事をした後、同じホテルにチェックインし、みんなでエレベーターに乗り込みます。
それぞれ部屋は別々の階で、下の階の部屋だった同僚が先にエレベーターを降ります。
そのエレベーターのドアが閉まる瞬間に言われた「おやすみなさい」。
ふだんとは違うシチュエーションだからこそ聞ける特別な「おやすみ」に、すこしだけ相手との距離が縮まったような感覚をおぼえます。
だから、「おはよう」より数が少なくても、バランスがとれていないわけではないのです。
数限りない日常の「おはよう」から、記憶に残る非日常の「おやすみ」までを送りあって、わたしたちは生きていくのです。