いいビルと、ビルを彩るものの世界 – いいビルの世界 東京ハンサム・イースト

まちを歩いていれば、いくつも目に入るビルの姿。

けれど、あたりまえにありすぎて、目をとめて「観る」ことは少ないかもしれません。

まちのなかにひっそりとたたずみ、ひとびとの暮らしや仕事によりそい、あるいはいつか消えてしまう…。

そんなビルの見方、楽しみ方を知ることができるのが、こちらの本です。

 

ビルがその建物を使う人のために設計されるように、この本も、ビルの魅力を伝えるため、いくつもの工夫が凝らされています。

たとえば、この本は、通常よりも高精細の印刷ができるフェアドット印刷という手法が使われているそうです。

大福書林 on Twitter

『いいビルの世界』は、モアレが出ないよう特殊な印刷をしています。普通の線数が200線くらいのところ、この本で使ったフェアドット印刷は350線と、ドットが細かく、配列も違うのです。カメラ店などで売っているルーペをお持ちの方は、眺めてみてください。ドットを見るだけで楽しめますよ。

 

そのおかげか、ステンレス・タイル貼りなどさまざまな素材でできたビルの外壁や内装が、実に色鮮やかに目に飛び込んできます。

 

そう、ビルを知るということは、ビルをいろどるさまざまなものの世界を知るということなのです。

「ビルの外側をいろどるもの」や「ビルと視点」といった記事では、ビルを楽しむ手がかりが図鑑のように紹介されていきます。

壁画といった大きなものから、ドアハンドルのコーディネートといった小技の光るものまで。

 

そして本書を読んで、大きな発見がありました。

Macユーザーならおなじみの、コマンドキーに印字された記号「」。

いったい現実世界では、どんなときに使うのだろう? と思っていたら、ドアハンドルの模様に描かれているのを本書の中だけでも二ヶ所見つけました。

これはぜひ、実物も探してみたくなります。

文字通り、知らない世界を開く扉であり、秘密のコマンドのようです。

 

わたしはよく、こうやって新しい知識を得たら、昔に撮った写真をもう一度見返してみることをしています。

そうすると、いままで見えていなかった景色が見えてきます。

 

つまりこういうことです。

中央の「丸高ビル」、一文字ずつの看板も素敵ですが、対照的に黒い外装、少し斜めにへこんだ窓が、実にいい表情を見せます。

こちらは本書にも紹介されていたJR上野駅のペデストリアンデッキ。

このときは、ちょうどタイルの清掃中で、かわいい積みパイロンに夢中でシャッターを切りました。

そして見返してみれば、パイロンが置かれた色とりどりのタイルも実にかわいい。

他にも上野には素敵なタイルやビルがあるそうなので、次に訪れるときは見逃さないようにしたいです。

ここにはおそらく、かつて公衆電話が置かれていたのでしょう。

公衆電話の数がめっきり減ったいまも、その置き場所だけがひっそりと時間を重ねていきます。

それによって、壁の少しずつ色が違ったタイルも、よりいっそう引き立つよう。

 

「いいビル」の味わいとは、そんな時間の流れを感じられることのように思うのです。

 

「塞翁が馬」に学ぶ、伏線を手放さないことの大切さ

「人間万事塞翁が馬」という故事成語があります。

古代中国、塞(とりで)のそばにいたという老人・塞翁の逸話にちなむもので、誰しも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

ある日、塞翁が飼っていた馬が逃げてしまいます。知人たちは、さぞや彼が悲しんでいるだろうと慰めにいくと、当人は「これは幸せのもとだ」として意に介しません。

その馬は、やがて駿馬を連れて戻ってきます。人々が喜ぶと、塞翁は「これは災いのもとになる」と浮かない顔をします。

はたして、塞翁の息子がその馬に乗ったところ、落馬し出足を骨折してしまいます。しかし、それは新たな幸いのもとで…。

そのようにして、人生には、しあわせとふしあわせが交互にやって来るものだと言います。

 

このことばは、人が幸福であるときのいましめに使うこともあるようですが、なにより、不幸だと感じているときにこそ思い出したいものです。

そして、塞翁の視点もけっして完璧ではありません。

 

コインを連続して投げたとき、表と裏が交互に出ることよりも、表か裏のどちらかが何回か連続して出ることが多いように。

統計学的には、良いことと悪いことが交互にやってくるわけではなく、不幸が立て続けに起こる確率のほうが高いのです。

 

そんな、本当にうちのめされるようなことがあったら、はたして塞翁もあなたも、平気でいられるでしょうか。

わたし自身、何度もつらい思いをして、正直に言うと人生に絶望しかけたこともあります。

それでも、人生はつづくのです。

そして、絶望しないで生きていられるのも、これまで歩いてきたみちが、伏線となってはりめぐらされているから。

複雑に張りめぐらされた伏線は、ある意味セーフティーネットとしてはたらきます。

その伏線の力を信じて、手放さないでいることが、なにより大切なことなのです。

 

この記事を書いていたころ、自分では本線だと思っていたものが、あとからふりかえれば、伏線だったということもありました。

よりみちといってしまうには、ちょっと胸が痛む、そんなみちのり。

この記事に書いたように、伏線は実は線ではなく、網目のように面としてひろがっているものです。

だから丈夫で、だからだいじょうぶ。

たとえ一時的に伏線が切れてしまったと思っても、それがめぐりめぐって、また次の縁を結ぶことだってあります。

実はこの記事は、架空読書会の伏線でもあり、わたしが思った以上にひろがったこの伏線に、いまとても助けてもらっているのです。

 

伏線のむこうがわには、網をしっかりと握ってくれている誰かの存在があります。

伏線は自分の力だけではなく、まわりの人の協力があってこそ強みを発揮します。

だから、塞翁よりもむしろ、彼を心配してやってきた人々に、わたしは感激をおぼえます。

この故事がいまに伝わっていること自体、史実はともかく、塞翁のまわりにいた誰かが、このことを教訓として書き残したから、と考えればどうでしょう。

「塞翁が馬」の故事成語を耳にした無数の人々につながる、実に壮大な伏線だと言えます。

 

いままでの人生で起こったすべてのものごとと、出会った人に「ありがとう」の気持ちを忘れずに。

その力を借りて前に進んでいくことで、しあわせな未来が待っています。

 

同じことをしない – 筒井康隆に学ぶ世界のひろげかた

人生にとって、文学(ものがたり)の効用とは何でしょうか。

 

その答えは人それぞれでしょうが、わたしにとっては「世界をひろげてくれるもの」というのがその答えです。

現実世界ではありえない冒険も、実験も、思索も、物語の世界なら体験できる。

そんな文学の楽しさをわたしに教えてくれたのが筒井康隆という作家です。

 

SF作家としてデビューしながら、ジュブナイル、純文学とさまざまなジャンルで半世紀以上にわたって活躍を続ける、その作風の広さは驚異的です。

そんな筒井さんの創作活動を、余すところなく解説したのが、こちらの本。

巻末の「主要参考文献一覧」にずらりと並ぶ、筒井さんの著者名と作品名に酩酊をおぼえます。

そして、あらためて感じるのは、これだけの作品数の多さにもかかわらず、シリーズものや、同一キャラクターを主人公とした作品が極端に少ないことです。

 

数少ない例外が、他人の心が読める超能力を持った少女、火田七瀬がヒロインとなった「七瀬三部作」でしょう。

しかしこれも、本書で解説されているとおり、その作風はバラバラです。

第一作の「家族八景」は家政婦としてはたらく七瀬が垣間見る家族の姿を描いた短編集。

第二作「七瀬ふたたび」は長篇と趣向を変え、七瀬と同じような能力者が集まって敵対勢力と戦うサスペンス。この二作は何度もドラマ化をされています。

と思ったら、第三作「エディプスの恋人」は突然、人間の内面世界を描いた幻想的な作品になり、映像化不可能と思えるような小説ならではの試みがなされます。

多大な人気を博した『七瀬ふたたび』の続編を、前作と同じスタイルで書き進めることだって出来たでしょうし、それはそれで絶大な支持を得られたはずです。しかし筒井康隆はそうはしなかった。ここには「自分の反復をしない」という筒井康隆が自分に課したルールが強く働いています。結果として「七瀬三部作」は小説史上、非常に希有なシリーズとなったのです。

(佐々木敦「筒井康隆入門」星海社新書、pp.94-95)

とにかく、筒井康隆という作家は同じことをしない。

それでいて、夢だとか文学賞だとか、似たようなモチーフが時間をおいてくり返しさまざまな作品に登場してきます。

まるで、作者の中心をコンパスで円を描くように、しかもそれが完全な同心円ではなく、少しずつ摂動して揺れ動いていくように。

(余談ですが、筒井康隆とコンパスといえば名作「虚航船団」を思い出さずにはいられません)

もっとも有名な筒井康隆作品といえば「時をかける少女」でしょうが、これすら、作者みずからの手によるシリーズ化はされていないのです。

それでも、筒井作品を愛する人の手によって、映画化されたり、アニメ化されたりして、それは文字通り時を超えて生まれ変わります。

これほどまでに多様な筒井康隆作品に影響を受けて、作家となった人も多く生まれます。

あたかも短編「バブリング創世記」のごとく、筒井康隆はツツイストを生み、ツツイストは新たな作家を生み、そしてこの記事のような文章を生み、筒井康隆をめぐる無数の文章が、世界が自己増殖していく。

 

そうして、昨日より少しひろくなった世界を、私たちは生きていくことができるのです。

 

 

一人で読む、他人を感じる – という、はなし

本というのは、とてもふしぎな存在です。

世界の一部を切り取ったかのような紙面に、あるいはディスプレイに、端正に並べられた文字列。

ひとたびその文字の海に目を向ければ、どこにいても、だれといても、まったく違う世界へと漕ぎ出すことができるのです。

 

そんなことをあらためて思ったのは、こちらの本を読んだからでした。

 

クラフト・エヴィング商會の一員として、この世のどこにもないような本を作り続ける吉田篤弘さんが語るおはなし。

この本は、装画を担当したフジモトマサルさんのイラストが先にあって、そこから連想される物語を吉田さんが文章にするというかたちで作られたといいます。

あとがきにいわく、挿絵ならぬ「挿文」。

 

じっさいに、本を開けば、挿絵以上の存在感をもってフジモトさんの絵が目に飛び込んできます。

どのイラストにも、黒猫、ペンギン、シロクマなどの擬人化された動物が本を読んでいる姿が描かれています。

あるいは電車の中で。駅のホームで。

図書館の片隅で。入院先のベッドで。おふろの中で。

 

読書というのは、本質的に孤独なものです。

もちろん、絵本の「よみきかせ」や朗読といった形態もありますが、ここに描かれているのは、黙読としての本を読むひとびとの姿です。

絵本を読む子供(の動物)が描かれるシーンでも、かれらはそれぞれ背中合わせになって別々の本を読んでいるので、おそらくフジモトさんの意図がそこにあると見ていいでしょう。

静かに本を読む瞬間、わたしたちはいっとき現実世界から離れて、ひとりの時間を手に入れます。

 

けれど、それは同時に、他人の存在を意識するものでもあります。

まさに吉田さんがフジモトさんの絵を意識して物語を組み上げたように。

読者も、その文章を通して、作者の存在を物語の向こうに垣間見ます。

あるいは、誰かからおすすめされた本であれば、その人のことを想ってページをめくることもあるでしょう。

逆に、物語を読みすすめるうちに、これはあの人が好きそうな本だ、と誰かのことが頭に浮かんだり。

 

本を読み終えた後で、他人に感想を話したり、他人の意見を聞いてみたいと思うことも。

あるいは、この読書体験は、自分ひとりだけのものにしたいと思うことも。

 

一冊の本を通して、他人を感じることで、世界は無限にひろがっていきます。

 

26文字のイメージ – 英国人デザイナーが教えるアルファベットのひみつ

アメリカやヨーロッパをはじめ、世界の多くの国で使われているアルファベット。

それは、日本や中国で使われる漢字とは、成り立ちも用法も大きく異なります。

漢字が一文字だけでも意味を表す「表意文字」とよばれるのに対し、アルファベットは一文字だけでは意味をなさず、単語のかたちにして初めて意味をもつ「表音文字」だと言われます。

でも、それはほんとうなのでしょうか?

あえて、単語をバラバラに分解し、一文字のアルファベットに着目することで、新しい何かが見えてくるかもしれない…。

そんな視点で書かれた本がこちら。

 

それぞれのアルファベットの成り立ちとともに、その文字が現代までどのように使われてきたか、ロゴやフォントの例も交えて一から十まで…ならぬAからZまで解説していきます。

たとえば は比較的最近アルファベットに含まれた文字で、「ロミオとジュリエット」もシェイクスピアの執筆当時は「Juliet」ではなく「Iuliet」だった…というような、ちょっとした豆知識も身につきます。

著者は日本在住の英国人ということで、英国で出版された本の翻訳書ではなく、はじめから日本人をターゲットとした企画だったようです。

日本語の表音文字といえば、ひらがなとカタカナ。

「凪の渡し場」でも何度も紹介している「よきかな ひらがな」では、まちなかの看板から、そんな文字を一文字ずつ抜き出して鑑賞していきます。

そちらの本を読んでも、ひらがな一文字ごとに、特定のイメージがあることがわかります。

そんなふうに、わたしたち日本人がひらがな・カタカナのロゴに感じるようなイメージを、欧米人もアルファベットに感じているのかもしれません。

 

日本のまちなかで、そしていずれ欧米圏を訪れることがあれば、ご当地で。

アルファベットのイメージを感じとるタイポさんぽも楽しそうです。