好きのきもちのキャッチボール

あなたには、好きなこと、偏愛しているものがあるでしょうか。

そしてそれを、他人に公言できるでしょうか。

 

とりわけ内向型人間にとっては、自分の「好き」をはっきり口に出すことに、ためらうことも多いでしょう。

 

自身の好きなことが、相手に受け入れられなかったらどうしよう。

他人と違った趣味、嗜好をもっていることで、変に思われないだろうか。

 

そうやって考えすぎてしまったり。

 

あるいは、自分の好きなことなのだから、他人に理解してもらわなくてもかまわない。

そういう考え方も、いいと思います。

 

でも。

 

自分がなにかを好きだと公言することで、そのことばに共感してくれる人がいたり。

いつのまにか、興味や関心の近い人が、まわりに集まってきたり。

そうやって、ひとりだけでは見えなかった、新しい世界が広がっていくこともあります。

 

それはまるで、好きというきもちをことばに載せた、キャッチボールのようなもの。

 

キャッチボールというのは、考えてみればふしぎなことばです。

現象としては、ふたり、あるいはそれ以上でのボールの投げあい。

だから、最初は必ず、誰かがボールを投げるところからはじまります。

けれど、視点はあくまで投げ手(ピッチャー)ではなく、受け手(キャッチャー)にあります。

 

ピッチボールではなく、キャッチボールである理由。

それは、お互い、相手がちゃんと受けとめられるように、ということを考えてボールを投げるからかもしれません。

 

わたしの好きなきもち。

それは、相手にちゃんと届くだろうか。届いたらいいな。

不安と期待が入り混じりながら、それでも思い切ってことばに出してみましょう。

 

あなたの好きなきもち。

わたしの世界を、もっともっと広げてくれるかもしれないもの。

自分とは違う視点をもっていても、しっかりと受けとめましょう。

 

原爆ドームと広島のまちを俯瞰する視点 – おりづるタワー

広島のまちの風景といえば、原爆ドームを思い浮かべる方も多いでしょう。

昭和20年8月6日。あの日以来、時を止めてしまったようなその光景は、何度訪れても胸がいっぱいになります。

 

その原爆ドームの東隣に、2016年(平成28年)、おりづるタワーという施設がオープンしました。

おりづるタワー HIROSHIMA ORIZURU TOWER

今まで見たことも感じたこともない空間、「おりづるタワー」は世界遺産・原爆ドームの隣にオープンした新しい観光名所です。

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1Fの無料開放エリアは、カフェと物産館になっています。

握手カフェと名づけられたこちらでは、もみじ饅頭アイスや、広島風お好み焼きをタコス風スティックにした「オコス」など、オリジナルメニューが盛りだくさん。

お好み焼きは食べたいけれど、ちょっと量が多い…というときにも良さそうです。

それまで原爆ドーム周辺に少なかったお土産屋を含め、繁華街である紙屋町・本通への回遊性も考えられています。

有料スペースとなっている展望台の入館料は、おとな1700円。後述する「おりづる投入」を体験する場合は+500円かかります。売上の一部は原爆ドーム保存や広島市の平和推進事業にあてられるとのこと。

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展望台へは、スロープか直通エレベータで向かいます。かなりの高さがあるので、健康面に不安のある方はエレベータを使いましょう。

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12Fでエレベータを降り、屋上展望台・ひろしまの丘へ。

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これは小塚ゴシックでしょうか。

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正面階段を上ると、一気に視界が開けます。

 

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原爆ドームはもちろん、広島平和記念資料館、旧広島市民球場まで、広島のまちが一望できます。よく晴れた日には、瀬戸内海や、宮島の弥山まで見渡せるのだとか。

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これまでも、そごうの高層階から部分的に見渡せるところはありましたが、ここまでのパノラマで平和記念公園を見下ろす視点は無かったのではないでしょうか。

この体験を設計したのは、瀬戸内国際芸術祭の舞台でもある犬島精錬所・直島ホールなどを手がけた三分一博志さん。
配布されていたフリーペーパーによると、広島の「風と水のリズム」を感じてほしいとのこと。

三分一さんは、おりづるタワーのオーナーであり、広島マツダの社長を務めていた松田哲也さんの同級生という縁でビルの改装を頼まれたそう。

現代の広島のまちの魅力を伝えるという想いが伝わってきます。

 

平和記念公園をずっと眺めていると、修学旅行生がひっきりなしに訪れる様子が見えます。

原爆ドームは時間が止まっているように見えて、その周辺は、絶え間なく移り変わっていきます。

 

 

ひとつ下の12F。ここでは原爆ドームを、また違った視点で見つめることができます。

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原爆ドームが原爆の被害を受ける前、そこは広島県物産陳列館でした。その建物を設計した建築家、ヤン・レツルにまつわる展示。

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また、原爆の爆心地はドームではなく、少し離れた島外科内科。その場所も、ぜひとも記憶にとどめておきたい。

 

その横、おりづる広場は、折り鶴をモチーフとした体験スペースになっています。

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そしてここで、自分で折った鶴を、ビル壁面の空間、おりづるの壁に投入することができます。
入館前は、500円は少し高いと思ってしまったのですが、ここに来ると、体験しないともったいないという気持ちに。

カウンターで5枚の折り紙を渡され、好きな数だけおりづるを作ります。

投入のことを考慮して、紙は少し固め。

折り方をおぼえていない人も、解説があったり、案内の人がいるので安心です。
折り目に沿って、模様がついた紙もあります。
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Processed with Rookie Cam

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3人家族にしてみました。

案内に従って、ガラス貼りのおりづるの壁へ。一羽ずつ、静かに投入していきます。

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まっすぐ下りていくものもあれば、ループを描いていくものも。
途中で引っかかって止まるものもあるそうです。

こうして、オープン以来、来場者の折ったおりづるが、少しずつ積み重なっていきます。

高さ50mの壁がいっぱいになるまでには、100万羽のおりづるが必要。いまのペースだと、数年はかかるとのこと。
いっぱいになったら、また再生紙として折り紙などに活用されるそうです。

ちなみに、平和記念公園に届いた千羽鶴はいままでも、障碍者支援事業と協力し、再生紙としてよみがえっています。

おりづる再生プロジェクトとは |おりづる再生プロジェクト

株式会社 文華堂 〒730-0042 広島市中区国泰寺町2-5-3 電話/082-241-2415 FAX/082-241-2459 …

 

想いは形を変えて、何度でもよみがえる。
スクラップ・アンド・ビルドで、この国は発展してきた。

そんなことを感じさせます。

 

帰りは、スロープでゆっくり下りていきました。

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漫画家・佐藤秀峰さんの作品も展示されています。

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これは違うサトウさん(^^;
おりづるタワーに合わせて設置したものではないと思いますが、まさか、こんな間近で見られることになるとは想像していなかったのではないでしょうか。

 

展望台は、当日であれば再入場可能とのこと。

今回は昼しか訪れることができませんでしたが、夕方や夜景も綺麗そう。

春には平和記念公園を桜が彩るということで、ぜひまた訪れたいですね。

 

四季折々や時刻の変化とともに移り変わる広島のまちを体感できる、新しい広島名所の誕生です。

芸術をみつけだす観察者の視点 – 赤瀬川原平の芸術原論

芸術、アートとは何か。

それはとても奥が深く、裾が広い問い。

たったひとつの正解があるものではなく、それこそ人によって無数の答えがあることでしょう。

そうだとすれば、この質問は、その人が世界をどう見ているか、その視点を尋ねていることにひとしいと言えます。

 

この本では、赤瀬川原平さんによる、芸術への視点が語られます。

 

さまざまな雑誌などに掲載されたエッセイをまとめたもので、内容をふまえて全部で5章に編集されています。

もともとの美術家としての赤瀬川さんの側面に視点を合わせる人は、「II 在来の美」での美術(絵画)についての論考に注目するでしょう。

また、超芸術トマソンという概念を生み出し、路上観察学へと発展させた赤瀬川さんに着目すれば、やはり「IV 路の感覚」がおもしろい。

「V 芸術原論」も、トマソンや路上観察でよくみられる物件の分類が紹介されていて、これから路上観察をはじめる人にも参考になります。

 

ただ、それらに分類されることもない、いっけん雑多な話題が散りばめられた「I 芸術の素」の文章が、実にいいのです。

自分の意識が、自分にだけわかるもので、他人にはわからない。

人間は生まれたら誰でも必ず死ぬ。いままでの長い人類の歴史の中で、ただのひとつも例外がない。
そんな、子供の頃にふしぎだと思いながら、いつしか当たり前のこととして受け入れてしまっていたことを、ふしぎのままとして掘り下げていく、この感覚。

 

とくに好きなのは、「波打つ偶然」と名づけられたエッセイ。

思いがけないところで知り合いに会ったり。

お互いが、別のところで似たような経験をしていたり。

そして、そんな偶然というものに何らかの意味を見いだしてしまう、それも人間というもの。

 

そんな偶然を偶然として片づけない視点が、路上観察学にも活かされています。

トマソンや路上観察学が芸術になるのは、それを作った人ではなく、観察する人の視点によって、新たな意味が見いだされるから。

物件はそこにあるから、そこに行けば誰でも発見できる、しかしそこへ行く才能というものがあるのだった。物と出合う才能である。物を見る才能ということも混じるわけで、自分でも名品を見つけたあとは気分が高揚して、目が冴えわたるのがわかり、たてつづけに名品を見つけたりする。(p.314)

路上観察をしていると、このことはよくわかります。

 

まちを歩いていて、偶然に出会う物件。ふつうは通り過ぎてしまうようなものでも、路上観察の目をもっていれば、それを発見することができます。

 

ちなみに、この本では先に説明したとおり物件の分類も紹介されているのですが、それに沿ってだけ物件を集めても面白くない、と書かれているのが興味深いところ。

路上観察学を「学問」としてみれば、収集して分類することに重きを置いても良いと思いますし、実際そうやって一ジャンルに特化した活動をされている方も多くいます。

けれど赤瀬川さんにとって、「芸術」としてみれば、それはひとつの正解を求めているだけで冒険がない、ということなのでしょう。

 

路上観察学にも、無数の視点があって、無数の答えがある。

そんなこともあらためて発見した一冊でした。

 

豊橋・水上ビルで、まちの記憶にふれる

ついに会期わずかとなった、あいちトリエンナーレ2016。

今日は、なかなか行く都合がつかなかった豊橋地区を取り上げます。例によって、作品以外の視点多めです。

 

豊橋へは、JR、名鉄、あるいは東海道新幹線で豊橋駅へ。作品会場は駅周辺に集中しています。

とくに印象的なのが、その舞台のひとつである、水上ビル。

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豊橋には何回か訪れているのですが、路面電車の北側エリアしか歩いたことがなく、今回その存在をはじめて知りました。

その名の通り、農業用水路の上に連なるビル群の総称です。

大阪の船場センタービル(高架道路の下につくられたビル)に負けず劣らず、なかなか見られない、めずらしい構造ではないでしょうか。

ビルの1階は商店街になっていて、トリエンナーレ作品と、商店街の看板を同時に楽しむことができます。

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NOWなスナック。

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怪盗のほうのルパンはLupinなので、別の意味があるのか…そしてフォントがMSゴシックに見えるのも気になります。

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健康への Hop Step Jump!

Microsoft Officeで作ったようなクリップアートが、たまらない味を出しています。

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ごく自然に見逃してしまいそうな「はちみつ」ですが、よく考えると一箱でも足りなかったり、順番が入れ替わっていたら読めなくなるわけで、使い手の律儀さを試されているデザインだなぁと。

 

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いろいろと話題になっているらしいラウラ・リマさんの作品(T-04)ですが、鳥たちはどこ吹く風。

それよりも、この渋ビルの風情に注目がいってしまいます。

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ヨルネル・マルティネスさんの作品(T-05)。セメント袋でつくられた雑誌というメディアのかたち。

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海外の日用品のパッケージ。タイプディレクターの小林章さんがつくられたフォントがいくつもありそうです。

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こちらは作品ではないですが、トリエンナーレ公式ガイドブックに載っており、気になっていたヒグラシ珈琲さん。

レトロ喫茶店をメンテナンスして近年オープンされたとのこと。

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いっぽう、こちらは別の会場、開発ビル地下の喫茶店。めずらしい形のリガチャ(合字)。キーコーヒーのステッカーが横向きなのも気になります。

今回は時間が合わず、どちらも行けなかったので、文字通り Try Again、再訪を誓ったのでした。

開発ビルの中も、それはそれは素晴らしい空間。

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あえて作品紹介はひとつだけ。この記事のしめくくりにはぴったりな、岡部昌生さんによるフロッタージュ作品(T-13)、豊橋市のマンホール。

 

記録されることで、まちは人の記憶に残る。

今回のあいちトリエンナーレ全体に通じるテーマを、そこに感じました。

 

ひとりひとりの「視点」のちがいを考える

人は、他の誰でもない、自分だけの視点をもっています。

 

たとえば、こんな話をご存知でしょうか。

 

ふたりが並んで、同じ風景を見ていたとします。

それぞれが同じものを見ているようでいて、実は別のものが見えているのです。

 

それは、ふたりの立つ位置や身長が厳密に同じ場所ではないことから、同じものでも見える角度が違うという物理的な理由であったり。

あるいは、瞳に映る光や色の感じ方も、人によって感度の差があるという視覚的な理由であったり。

さらには、それぞれが過ごしてきた人生における体験、知識の違いから、認識が異なるという理由であったり。

 

この話をどこかで聞いた(あるいは読んだ)とき、なんとも言えず全身が震えるような感動をおぼえました。

逆に言えば、どれだけ体を近づけても、あるいは心が通い合っていても、同じ目で見ることはできないということ。

おそらく、はるか昔から、そんなひとりひとりの視点の違いに気づいた人がいることでしょう。

それをなんとかしたいという想いが、絵画や写真という技術を発達させる原動力になってきたのではないかとさえ思えます。

 

さて、さらに妄想をふくらませてみましょう。

このふたりが、恋人どうしであったとしたら。

そして、やがて結婚し、こどもが産まれたとしたら。

ふたりの視点を受け継ぎつつ、この世に、さらにもうひとつ、新しい視点がうまれることになります。

 

そのこどもが、お父さん・お母さんに、おんぶやだっこをしてもらったとしたらどうでしょう。

物理的な意味では、両親どうしよりも近い視点で、同じ風景を見ることができると言えます。

 

こどもがどうして、肩車や、たかいたかいを嬉しがるのか。

それは一瞬であれ、お父さんやお母さんの身長よりも高い視点から、世界を見ることができるからかもしれません。

親にとっても、自分ひとりだけではみつけられない、そんな新しい視点を得るところに子育ての楽しみがありそうです。

 

わたしにはまだこどもがいないので、まったくの想像で書いています。

けれど自分にも、物心つく前に、そんな視点を手に入れた瞬間があったはず。

それを思うと、両親やその祖先といった無数の先人の視点が、わたしの中に受け継がれていることに感謝しつつ。

そんな視点を、未来に受け継いでいければとも思います。