好きなことの語りかた – ヒト、モノ、バのどれにフォーカスするか

このブログ「凪の渡し場」では、日常を新たな視点で見るために、わたしが気になったこと、好きなことについて語っています。

 

好きなことを好きだと言えることはとても大切で、それをできるだけ多くの人に届く言葉で語ることも、同じくらい大事だと思っています。

 

では、どういう切り口で、好きなことを語ればいいのか。

今回は、ブログの記事を例に、好きなことの語りかたを三つに分けて語ってみます。

 

ヒト(人)

ひとつめは、ヒトにフォーカスして語る方法。

ある本や作品に触れたとき、その作り手自体の視点を強く感じることがあります。

そんな場合は、その作品の紹介というよりは、その人を友人に紹介する気持ちになって文章を書いています。

 

水のような、空気のようなフォントを世の中に生み出す人がいる – 文字を作る仕事 では、書体設計士の鳥海修さん。

原平という人がいた! – 赤瀬川原平の全宇宙 など多くの記事では、赤瀬川原平さん。

文章であらわす、わたしの姿 – 北村薫の創作表現講義 では、作家の北村薫さん。

 

ただ、この方法、実はわたしはまだ得意ではありません。

大愛知なるへそ新聞に参加して記事を書いたときにも、出来事を通してその人の個性を語ることの難しさを痛感しました。

その奥にあるのは、表面的なイメージで人をとらえたくないし、とらえられたくないという気持ち。

記事を見返すと、まだまだ表面的なイメージにとらわれているところもありそうなので、もっと掘り下げて、人のことを知りたい、語りたいと思います。

 

モノ(物)

ふたつめは、モノにフォーカスして語る方法。

文字通り、一般的なものがたりの手法でもあります。

迷わず使いわけたい! 筑紫A丸ゴシック・筑紫B丸ゴシックもう一つの丸明朝体、解ミンなど、フォントの紹介記事もこのタイプ。

図解で知る、深く味わう – 名古屋東海図鑑で書いたとおり、「図鑑」が好きというのも、この話に通じるところがあります。

ものがたりというと文系的ですが、理系的な視点も説得力を持たせるためには重要。

あるモノの特徴を数字や図解で示すことで、どんな特徴があるのか、何がすぐれているのかを客観的に語ることができます。

 

 

バ(場)

さいごに、ヒトやモノよりもっと広い場、つまり土地や集団といった面にフォーカスを当てる方法があります。

名古屋の本屋の中心に – ちくさ正文館と、喫茶モノコト〜空き地〜は、その典型的な例。

トリエンナーレの裏側で – 岡崎タイポさんぽなど、まちあるきの記事も、そこに行ったことがない人にもその土地らしさを感じてもらうことを目標にしています。

広島偏愛シリーズも、個々の記事ではモノにフォーカスしながら、それを生み出した広島という土地に対する興味から書き続けています。

 

 

個別にものを見ることも、場の全体を見渡すことも、どちらの視点も大事にしたい。

「凪の渡し場」が渡し舟ではなく渡し場なのも、そんな意味を込めていたりします。

 

ブログだけでなく、好きなことを語るときに、どうやって想いを伝えたらいいのか、その語りかたの参考になれば幸いです。

文章であらわす、わたしの姿 – 北村薫の創作表現講義

文章表現には、その著者だけの視点があらわされています。

だから「表現」の文字も「著」の文字も、「あらわす」と読むことができる。

今回は、わたしが読者として偏愛し、また書き手としても憧れを抱いている作家の一人、北村薫さんによる文章表現の本をご紹介します。

 

北村さんは高校の国語教師をするかたわら、日常の謎を描いたミステリ「空飛ぶ馬」で作家としてデビューしました。

当時は、プロファイルを明かさない覆面作家としてデビューしたため、作中の語り手と同じ女子大生だと思っていた読者もいたとか。

のちに、経歴と性別(念のため、男性です)を明らかにして、小説だけでなく評論やアンソロジーの編集などで活躍されています。

 

この本は、北村さんが母校の早稲田大学で受け持った表現の授業をもとにつくられたもの。

昔の小説を題材にした講義や、現代の作家・編集者を招いてのインタビュー、それを学生たちがコラムの形にしていくワークショップなど。

思わず自分も学生として参加したくなるような「北村薫の授業」が、ここにあります。

 

さらに、本の中盤では、北村さんが当時NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演されたときのエピソードも収められています。

この番組は、出演者が卒業した小学校を訪れ、後輩の児童に特別授業を行うというもの。

大学生と小学生という受け手の違いから、授業の表現方法は変わっても、北村さんらしい視点がここにもあらわれます。

 

北村さんが授業を通して伝えたかったというのは「はてな、と思うことの大切さ」。

こどもたちがまちなかで「はてな」と思うことを探し出し、それを自分の物語にしていきます。

 

日常の謎、それは路上観察学やトマソンにもつながる視点。

普通ならそのまま通り過ぎてしまう日常を「謎」という視点で読み直すと、また違った物語が見えてきます。

 

人の視点の数だけ、ものがたりが生まれる。

そのものがたりにあらわれる「わたし」の姿、「あなた」の姿。

文章表現を大切にするということは、それを大切にするということでもあります。

 

 

「やらない理由」を考えすぎてしまう人に贈る言葉

内向型人間がもつ特徴のひとつに「慎重さ」があります。

 

何かをするときに、まずよく調べてから行動したり、なにも考えずに発言することがなかったり。

それは強みでもあり、弱みにもなる、いわば諸刃の剣。

慎重であることは、リスクを避けようとする気持ちのあらわれですが、同時にチャンスを逃してしまうことにもなりかねません。

 

わたし自身、新しいことをはじめる前や、誰かに声をかけようとする前は、慎重さが不安に変わり、考えすぎてしまうことがよくあります。

そんなときは、「やる理由」よりも「やらない理由」を多く見つけ出そうとしてしまいがち。

その両方を天秤にかけて、やっぱりやらないほうがいい…と、無理やり自分を安心させようとしてしまう。

 

でも、やったほうがいい、やらないほうがいいなんて、やってみないとわからないことも多いもの。

客観的な分析が得意なぶん、ほんとうは不確実な要素を「やらない理由」に数えあげてしまう、見せかけの分析をしてしまう危険があります。

 

そんなときに、思い出したい言葉があります。

 

戯言シリーズ、最強シリーズなどをはじめとする、西尾維新さんの小説に登場するキャラクター、哀川潤はこう言います。(正確には、彼女がある人物から贈られた言葉として語ったもの)

「嫌なことは嫌々やれ。好きなことは好きにやれ」

哀川潤(西尾維新「零崎軋識の人間ノック」講談社文庫刊)

この言葉から、どんなことを感じるかは人それぞれでしょうが、嫌なことでも、嫌々でもやるというところが今回のポイント。

好きなことしかやってないように見える潤さんが語るからこそ、この言葉の面白みは出てくるのですが、その話はまたの機会として。

 

あるいは、米澤穂信さんの「氷菓」をはじめとする古典部シリーズの主人公に言わせるなら、こうでしょうか。

「やらなくてもいいことなら、やらない。やるべきことなら手短に、だ」

折木奉太郎(米澤穂信「氷菓」角川文庫刊)

 

これもまた、彼なりの省エネ思想の言葉なのですが、こういうふうにとらえることもできます。

やるかやらないかの判断基準として、やりたいかどうかではなく、やるべきかどうかだけを考える。

 

やりたくないことを嫌々やるか、手短にやるかはともかくとして。

「やらない理由」を探し出していることを自覚したら、いったんこんなふうに視点を変えてみると、不安にとらわれることなく、前に進むことができるかもしれません。

 

 

この世界に生きる、すべての人へ – 映画「この世界の片隅に」

以前も紹介した、こうの史代さんの漫画を原作とするアニメーション映画「この世界の片隅に」が公開されました。

11月12日(土)全国公開 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」公式サイト

監督:片渕須直、原作:こうの史代、音楽:コトリンゴ、制作:MAPPA 声の出演:のん 細谷佳正 稲葉菜月 尾身美詞 小野大輔 潘めぐみ 岩井七世 / 澁谷天外 ほか。11月12日(土)全国公開 劇場用長編アニメ「この世界の片隅に」の公式サイトです。日本中の思いが結集! 100年先も伝えたい、珠玉のアニメーション

昭和19年から20年。広島から呉に嫁いだ少女、すずの視点で描かれる世界。

それは、まるで超細密なモザイク画、あるいはジグソーパズルのよう。

戦時中の日本を舞台にしていながら、戦争を前面に出したテーマとはしていない、日常の物語。

だからこそ、一面的でない視点から、戦争に向き合っているともいえます。

 

にぎわいを見せる、広島市中島新町(現在の平和記念公園)。

軍港としての呉。

空襲を受ける瀬戸内海。

 

個人的に偏愛する広島の、何度足を運んでも、もう見られない風景がそこに広がっていました。

 

そして、この世界をジグソーパズルと形容した理由は、すべてのピースに意味がある、細やかな描写まで伏線が張りめぐらされているということ。

それでも、物語は基本的にすずさんの視点で進んでいくので、細かい説明などは入りません。

もともと原作が大好きで、映画の公開前に呉市立美術館で開催されていた原画展にも足を運んだので、それぞれのシーンに込められた意味を思い、もう序盤から泣きそうになってしまったり。

思わず館内のあちこちで笑い声が漏れるほど楽しいシーンもいっぱいあるので、ほんとうは泣ける映画という表現はしたくないのですけれど。

まず何も知らない状態で観に行ってから、原作や映画公式ブックに触れると、新たな発見を得られるかもしれません。

 

 

誰もがみんな、この世界の片隅に生きている。

そうして、同じ時代に生きている他の誰かと出会い、別れ、新たな生をつむいでいく。

 

その意味を、何度でも何度でも考えたくなります。

 

さいごに、呉に行ったときの写真を。

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はんこ屋さんも「この世界の片隅に」を応援。

 

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美術館の手前にある、呉線の高架下近くの建物。現在は、海上自衛隊呉集会所になっているそう。

映画の中でも、外観は異なりますが当時の姿が少しだけ登場します。

 

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その建物の片隅に、ひなたぼっこする猫の姿が。

なんとも幸せそうで、印象的な光景でした。

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好きのきもちのキャッチボール

あなたには、好きなこと、偏愛しているものがあるでしょうか。

そしてそれを、他人に公言できるでしょうか。

 

とりわけ内向型人間にとっては、自分の「好き」をはっきり口に出すことに、ためらうことも多いでしょう。

 

自身の好きなことが、相手に受け入れられなかったらどうしよう。

他人と違った趣味、嗜好をもっていることで、変に思われないだろうか。

 

そうやって考えすぎてしまったり。

 

あるいは、自分の好きなことなのだから、他人に理解してもらわなくてもかまわない。

そういう考え方も、いいと思います。

 

でも。

 

自分がなにかを好きだと公言することで、そのことばに共感してくれる人がいたり。

いつのまにか、興味や関心の近い人が、まわりに集まってきたり。

そうやって、ひとりだけでは見えなかった、新しい世界が広がっていくこともあります。

 

それはまるで、好きというきもちをことばに載せた、キャッチボールのようなもの。

 

キャッチボールというのは、考えてみればふしぎなことばです。

現象としては、ふたり、あるいはそれ以上でのボールの投げあい。

だから、最初は必ず、誰かがボールを投げるところからはじまります。

けれど、視点はあくまで投げ手(ピッチャー)ではなく、受け手(キャッチャー)にあります。

 

ピッチボールではなく、キャッチボールである理由。

それは、お互い、相手がちゃんと受けとめられるように、ということを考えてボールを投げるからかもしれません。

 

わたしの好きなきもち。

それは、相手にちゃんと届くだろうか。届いたらいいな。

不安と期待が入り混じりながら、それでも思い切ってことばに出してみましょう。

 

あなたの好きなきもち。

わたしの世界を、もっともっと広げてくれるかもしれないもの。

自分とは違う視点をもっていても、しっかりと受けとめましょう。