わたしが敬愛する作家・筒井康隆の半世紀以上の創作活動に迫る特別展が2018年(平成30年)12月9日(日)まで東京の世田谷文学館で開催中です。
https://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html
会期中には必ず足を運ぶつもりですがしばらく行けそうにないので以下この記事では筒井さんをテーマにしたムックを紹介します。
副題は「日本文学の大スタア」。異端のフォントデザイナーと呼ばれる藤田重信さんの筑紫Cオールド明朝と筑紫アンティークゴシックが稀代のトリックスターである筒井康隆という作家にぴったりです。
作家としてのデビューは1960年。江戸川乱歩に見出され瞬く間に日本SF第一世代を代表する作家となりました。ムックには同世代の星新一・小松左京との対談も収録されています。
街中のいたるところに監視カメラが設置されメディアに人々が支配される世界を描いた「48億の妄想」など半世紀後の社会を予見していたかのような作品はいまでも人気が高いです。
現実が小説に追いついたのかあるいはこの現実自体も筒井康隆の小説が生み出した世界なのか。
たとえばわたしが生まれたのはずっと後の世代ですけれども子供のころ街の本屋さんへ行き文庫本の棚に向かえばそこに筒井康隆の作品がずらりと並んでいた記憶が思い起こされます。
もっと上の世代の読者に愛され読み継がれてきたからこそ作品は残りそうやって後の世代また後々の世代と誰もが筒井作品を手に取れる世界が実現したのです。
たとえば何度となく映像化された代表作「時をかける少女」も最初の原作や映画がありそれを観た人が作り手となった時代にそれを乗り越えようとして新しい映画が作られ続けていくのです。
「タイムリープする少女」という設定自体もはや小説やアニメにおけるひとつのジャンルとして定着してしまっています。
たとえばパソコン通信黎明期に朝日新聞に連載され読者からの投稿によって物語の展開が変わっていく「朝のガスパール」など現実と虚構を行き来する作品も数多くあります。
ひとりの作者が書いたフィクションが現実を取り込みあるいは現実を変えていく。
筒井さんはSFというものが小説の一ジャンルを超えて一般化・多様化していったことを〈浸透と拡散〉と表現しています。
その言葉を借りるならばこれはまさに筒井康隆の浸透と拡散。
この文章があらゆる意味で筒井康隆を読んでいなければ生まれ得なかったように(だから文体もあえていつもと違います)。
筒井康隆を読んだことのある人もない人も、筒井康隆の生んだ世界に囲まれて生きているのです。